ドーンDAWN28号
選考結果
大 賞 該当作品なし
佳 作 該当作品なし
奨励賞 該当作品なし
第26回児童文学ファンタジー大賞の公募は2019年11月から2020年3月31日までの期間で行われた。
応募総数130作。
一次・二次選考において6作が通過、コロナ感染症防止のため三次選考会は書面をもって開催。次の4作が候補作に決まり、最終選考委員に原稿を送付した。
「風のむこう側」 真山 恵以子
「初めての夏」 古市 卓也
「姫君とオニと幻の鈴~武蔵寺縁起異聞~」 珠下 なぎ
「鹿の娘」 井尾 青
最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、松本なお子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、9月13日、小樽にて開催。本年はコロナ感染症防止のため、選考委員のほか、報道関連、事務局と少人数で行う。
選考会は、大賞推薦の有無から始まり、大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り、佳作・奨励賞も該当作品なしと決定した。
選後評
斎藤 惇夫
(さいとう あつお)
選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住
●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。1970年、デビュー作『グリックの冒険』で日本児童文学者協会新人賞。1972年『冒険者たち』で国際アンデルセン賞優良作品、1983年『ガンバとカワウソの冒険』(以上全て岩波書店)で野間児童文芸賞を受賞。2000年に福音館書店を退社し、創作活動に専念する。2015年、小~高校時代を過ごした新潟県長岡市から、子どもへの読み聞かせや選書の大切さを伝え続けた活動が評価され、第19回「米百俵賞」を受賞。2010年に『哲夫の春休み』(岩波書店)、2017年には『河童のユウタの冒険』(福音館書店)を刊行。
読者の子どもの顔をいつも思いながら書いて下さい
今回は受賞作なしです。残念至極です。拝読した四つの物語を胸躍らせて読む子どもたちの顔が、どうしても見えてこなかったのです。ひょっとして書き手と読者の関係が希薄になっているのではあるまいかとさえ思いました。
私は、物語を書くときに、いつも特定の三人の読者を強く意識していました。まずはどうしてもその物語を読んでほしいと思っていた親しい子ども。次に、敬愛している作家。そして最後は、自分の中の子どもです。親しい子どもは、抽象性と饒舌から物語を守ってくれ、物語が登場人物たちの言葉と行為のみで語られることを待っています。敬愛している作家は、物語が俗に流れるのを救ってくれるのみか、その物語を書くことの意味も問い続けてくれます。自分の中の子どもは、いつも「子どものころに楽しんだ物語はこのレベルじゃなかったぞ!」と活を入れてくれます。尤も最後には、大概、この三人にもうこの辺で許してくれと目をつむって筆をすすめることになったのですが。私の方法はともかく、四人の書き手が、誰に向かって、誰を意識して書いているのか、とても気になりました。
「風のむこう側」
まず、物語の語り手としての「風の精」の設定が物語を曖昧なものにしている。一応最後に死を迎えるパパになることによって、その存在の意味が解き明かされることになってはいるのだが、娘の夏奈のクラスの中での人間関係も、息子陽太の学童保育も、母親の父親に対する思いも、あまりに平板に図式的に描かれているために、日常生活の中での魔法が感じられない。せっかくオジブワ族の神話を基に語ろうとした物語なのだから、それを大切に物語の中核に据えるべきであった。家族それぞれが日常生活で感じている生と死に対する思いと恐れ、つまりは日本的な死生観とオジブワ族のそれの近しさと遠さを魔法として描き出し、それを深めていきながら主人公たちの魂の回復を描くのが、作者の、読者に対する責任・仕事であったと思う。風が生きたものとして語られている物語は『北風のうしろの国』(岩波少年文庫)を初めとして傑作が多い。日常生活の中の魔法の可能性を、ぜひ探り続けてほしい。
「鹿の娘」
人が動物や植物に自由に変身できた神話の世界に挑んだ物語。賢治や『星の王子さま』の文体から学びながらの力作なのではあるが、挿入されているイタチの子の、季節外れの生き物「あわい」の話が長すぎ、物語の展開が、イタチの子の語りで強引に進められることになってしまった。主人公が百日紅に化身する歓びと悲しみ、動物や植物と一体であった神話の死生観が、拡散されてしまい、読者に不思議さと安ど感を味わわせてくれない。なによりも主人公の百日紅への自然な化身が感じ取れなくなっている。雰囲気としてのファンタジーはあるのに惜しい。もっと主人公に即して、主人公が聞くというところに身をおくのではなく、主人公の行為と会話のみで、描き切るべきであった。この物語、その意味では、二つの相いれないものが混合させられている、といった方がいいかもしれない。百日紅と図書館員の物語は、あくまでそれだけで完成させたら、また、イタチの子の語る物語も、それだけで一編の物語になったと思える。短編を幾つか書きながら、「ずっと、ずっと大昔」の物語に、つまり、いろいろな短編の物語を通して、時間を超えたところに生きている子どもたちの宇宙・世界に、挑んでいくのが作者の仕事のように思える。
「姫君とオニと幻の鈴」
600年代の大宰府を舞台に、恋と政治と魔術と医術と信仰と天然痘をファンタジー仕立てにした、華やかで贅沢な物語。着眼点もいいし、物語の構成力もしたたか。文章力もあり、緊迫感もある。ただ、あまりにも現実的な天然痘の流行と、オニ、魔術、政治、歴史、恋、仏教を、同じ窯の中でごたごたかき混ぜ、どれも書き切れずに、互いに融和することなく生煮えのままで終ってしまった感がある。天然痘の流行は、今のコロナウイルスの蔓延もあり興味深いのだが、物語を通して600年代の歴史を子どもたちに見せるには、更なる緻密な検証と、それを活写することが必要で、そしてファンタジーはそこからしか誕生しないのだが、例えば朝廷に亡ぼされた鉄の民のひとつにしても、あまりに安易に描かれすぎている。恋の顛末も同様である。つまりこの物語を通して、読者である子どもたちは、歴史を、そこに生きる人々を、今の自分と繋がることとして経験できない。作者が、一つ一つのエピソードを積み重ね、主人公と鈴丸の恋を縦軸に物語を展開し、一つの時代を浮き彫りにし、人間の変わらぬ姿を示したかったであろうことはよく分かるし、一つ一つの事柄に向き合おうとする姿勢も確かなのであるが、甘い。ひょっとして、締め切りとの関係で、成熟を待たずに投函されてしまったのかとも疑う。ぜひ、時間をかけて、完成させていただきたい。
「初めての夏」
文体はしたたかだし、幽霊も考えられて登場させられているが、著者のセリフだけが目立ち、なによりも長すぎ、現実と空想の中を行き来できる女の子のおかしさと、真剣さが見えてこない。ゴーストストーリーが成立するためには饒舌さが難敵であるが、手練れの作者が、強引に語りすぎてしまった失敗作である。
藤田 のぼる
(ふじた のぼる)
選考委員
児童文学評論家/日本児童文学者協会理事長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住
●小学校教諭を経て、日本児童文学者協会事務局に勤務。児童文学の評論・創作の両面で活躍している。2013年に発表した創作童話『みんなの家出』(福音館書店)で第61回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。
主な著書に『児童文学への3つの質問』、『麦畑になれなかった屋根たち』(ともにてらいんく)、『山本先生ゆうびんです』(岩崎書店)、『「場所」から読み解く世界児童文学事典』(原書房、共著)などがある。
「鹿の娘」の〝わからなさ〟に期待
僕が今回、とても〝身を入れて〟読んだのは「鹿の娘」でしたが、まずは最終候補の四作品について、読んだ順に感想を記します。
「風のむこう側」は中学二年の夏奈(なつな)と母親をめぐるストーリーで、弟の陽太を含むこの家族を見守る、子ども文庫の主の蘭子さんが助演女優という感じです。作品の語り手は人間世界を見下ろしている漠然とした存在なのですが、その語りがいささか生硬で、作品世界に入りにくい感じがありました。後段で語り手が単身赴任先で亡くなった父親であることが明かされ、それを知って読んだ二回目は割合すんなり読めましたが、この語り手の設定が成功しているとは思えません。それよりも、町の手芸店で働き、店を任されようとしている母親、東京から転校してきた訳あり風の亨、といった人物配置や描かれ方が、いわゆるTVドラマ風というか、なにか既成のイメージに寄りかかっている感じがして、彼らの悩みや切なさが今ひとつ切実に感じ取れませんでした。
「初めての夏」は作者は最終候補の常連ですが、これまでのような特異な作品世界ではなく、十歳の三久の思いに寄り添う形で作品世界が構成されています。三久の父親は意識不明の状態が続いており、転院のために新しい町に越してきたところから物語が始まります。三久が最初に会ったクラスメイトの安藤さんは、少し前に父親を亡くしており、幽霊になっているはずの父親を捜すのを手伝ってほしいと、三久に持ちかけます。リアルと幻想の狭間に読者を誘い込む展開で期待しましたが、後段はかなりに神学的というか、作者の思考実験に付き合わされる感じでした。474枚というこの作品、半分程度の枚数にして、より読者との対話を試みてほしいと思います。
「姫君とオニと幻の鈴」はここまで評した二作に比べて、読者が「この先、どうなるのだろう?」と期待しながら読める展開になっています。壬申の乱直後の大宰府を舞台に痘瘡との闘いを題材にしているわけですが、朝鮮半島との関係性を軸とした国際情勢、一世紀以上前のこの地での磐井の乱を下敷きにというふうに、空間的にも時間的にも、作品世界の奥行きが半端ではありません。さらには「オニ」をめぐる考察、薬師如来信仰、鉄の民の捉え方など、これらが作品の〝隠し味〟になっているのならいいのですが、結構正面から取り上げられていて、そのために後段がかなり説明的になってしまっています。切るべきところは切って整理すれば、歴史ファンタジーとして魅力ある作品になると思います。
そして最後に読んだのが「鹿の娘」でしたが、これまでの十数回の選考経験の中で、多分初めて「この作品を、僕が評価できるだろうか?」と思わされた作品でした。主人公は、町の有志が創設した「文庫」に住み込みで働く〈私〉。この町では時に人が木に化身するということがあり、私もやがて百日紅になる定めを負っています。その私の所にいたちの子が週に一度やってきて語る「あわいの子」の物語が、作品の半分以上を占めます。つまり、〈私〉自身の物語と、いたちの子が語る物語の二重構成になっているわけですが、いたちの子が語る物語の不思議さ(あえていえば訳の分からなさ)と、二つの物語がどのように重なっていくのだろうかという分からなさ(?)が、僕にはとても魅力的でした。ただ、ツッコミどころも多々あります。一番の問題点は、〈私〉の日常が見えてこないという点でした。主人公は文庫という場で、そこにやってくる子たちをどんなふうに本と出会わせようと腐心しているのか、その運営のために町の人たちとどんな関係性を築こうとしているのか、そのあたりが全くと言っていいほど書かれていません。そこがきちんと描かれれば、右記の「二つの物語の重なり」がもっと見えてくると思うのですが。
ということで、僕は後の二つの作品が奨励賞でもいいのではと思いましたが、この賞の今後のこともあり、今回受賞作なしに同意しました。
松本 なお子
(まつもと なおこ)
選考委員
ストーリーテラー、子どもと絵本ネットワークルピナス代表
1950年生まれ・静岡県浜松市在住
●浜松市立図書館に司書として32 年間勤務し、城北図書館長、中央図書館長を務める。その後図書館を離れ、子育て支援課長、中区長、こども家庭部長を務め、児童福祉業務に携わり、2011年に浜松市役所を退職。静岡文化芸術大学等で非常勤講師を勤める傍ら、各地でボランティア、教師、保育士等へのストーリーテリングや読み聞かせの指導にあたっている。主な著書に『これから昔話を語る人へ―語り手入門』(小澤昔ばなし研究所)。
読者を道に迷わせないでください
今回はどの作品も部分的には素晴らしいところがあったのですが、読者を迷わせることなく結末まで連れて行ってくれる力に欠けました。
「初めての夏」は、主人公三久と安藤さんの二人の少女に好感と共感をもって読みました。父親との思い出が無い三久と、父親との思い出があるだけに死を現実として受け入れることができない安藤さん、小学生としては重すぎるそれぞれの思いを抱えて向かったのが「幽霊探し」というのは、闇を抱える小学生らしい設定でした。幽霊を探しながら、三久は果てしなく自問自答を繰り返し、安藤さんと虚実ないまぜの会話を続けます。互いにうそを承知で会話を重ねていく二人に、この世代特有の脆さや無邪気さや思いやりを見ました。それにしても、ことばも場面もあまりにも過剰です。思い切って削ぎ落してみたらいかがでしょう。
「鹿の娘」は四つの最終候補作品の中では最もファンタジーらしい、ファンタジーでなければ描けなかった世界と言えますが、残念ながら作品としてのまとまりに欠けます。鹿のような木肌を持つ百日紅になるべく生まれた主人公、主人公のもとへやってきて物語を語るいたちの子、その物語に登場するあわいの子、どれもユニークな存在です。植物や小動物の描き方にも独特のものがあります。ところどころに挿入される詩や歌もこの世界に溶け込んでいます。それでも、読み進むにしたがって感じる居心地の悪さは何なのでしょう? たぶんそれは主人公が百日紅になる運命を既定のこととして淡々と説明するのみで、それに伴うおののきや喜びが伝わらないからでしょう。エスキモーの魔法のことばは、その昔なりたいと思えば人は動物にもなれ、また動物も人になれた喜びを歌い上げていたはずです。独自の世界を構築しようとしながら、その「喜び」が伝わらなかったことは残念でなりません。
「姫君とオニと幻の鈴」は伝説をモチーフにした作品ですが、そのモチーフが作品の魅力になり得ると同時に、破綻の要因にもなるという皮肉な結果になりました。折しも新型コロナ感染が世界中を震撼させているこの時期にタイミングよく登場した作品ということもあり、興味深く読み始めたのですが、途中から、いったいどこへ読者を連れていってくれるのだろうと懸念が生じました。案の定、結末は到底受け入れがたいものになりました。伝説上の人物瑠璃子姫、その父親である藤原虎麿、武蔵寺の僧法蔵といった伝説上の人物に、幽世からきた鈴丸と、彼が所持する不思議な力を持つ鈴、それに加えて疫病や渡来人たちとの確執と、お膳立ては十分興味深いのですが、それらがうまく関係性を結べていません。また舞台が古代であり、おのれの使命と愛の狭間で悩む主人公を描くのであれば、お手軽な恋愛小説のようなことばではなく、それにふさわしい文体で統一してほしいと思います。疫病が蔓延していく描写はリアリティがありました。
「風のむこう側」は、最後まで作品世界に入ることができませんでした。14歳の少女が父親の死を受け入れ、学校や家族の中で自分の居場所を見つけていく様を、風の精のような語り手が見守りながら語る、という設定は悪くはありません。けれども、出だしは「風の精のような」わたしが語り手だったのにいつのまにか「夏奈」になったり、「わたし」は内面を持たないはずだったのに途中から内面描写が多出したりと、いったんほころびに気づくと落ち着いて読み進めることができませんでした。「わたし」が実は本人も自覚していなかった父親の魂であったという展開も強引です。
中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)
選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住
●専門は日本近代文学、映像詩学、現代文化論、考現学。全国小津安二郎ネットワーク会長。著書に『小津の汽車が走る時 続・精読小津安二郎』(言視舎)、『精読小津安二郎 死の影の下に』(言視舎)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)、『荷風と踊る』(三一書房)など。映画プロデュース作品に前田直樹監督『冬空雪道に春風』(2010年)、出演作品に篠原哲雄監督『プリンシパル~恋する私はヒロインですか~』(2018年)など。CFにDCMホーマック(2016年)、東急リバブル・娘との帰り道編(2016年)、津軽海峡フェリー(2017年)、チャペル・ド・コフレ札幌(2017年)、北海道米販売拡大委員会(2018年)など。MVにNORD「ゴー!ゴー!レバンガ~超えろを超えろ。~」(2018年)。
ハッピーエンディングを安易に求めてはいけません。
あれよあれよのコロナ禍で、勤務先の短大も前期の講義すべてがオンラインとなった。会議もzoom。なるほど便利この上ないが、これだとメッセージ中心主義がはびこってしまうのでは。児童文学ファンタジー大賞最終選考会もzoom開催かと危惧したが、通常スタイルで(ギャラリーは制限)となりほっとした。やはり息遣いも違うし、阿吽の呼吸ということもある。今回は受賞作なしという残念な結果となったが、委員の意見が分かれる中、課題も明らかになったかもしれない。賞が求める理念の高さか。
珠下なぎ「姫君とオニと幻の鈴~武蔵寺縁起異聞~」。もたもたしたタイトルだな。とはいえ、巧んでのことではなかろうが、時宜にかなった疫病退散物語。病者を診るのにその素性は関係ないという法蔵の言葉は、作者が医者であることを知ってしまえば拍子抜けせぬでもない。疫病退散の儀式や呪文は現代のマスクや消毒、鈴丸の鬼の力はワクチンのアナロジーと読める。タイミングが良すぎて、むしろ損したかもしれない。
鈴丸と悪鬼の戦いはカンフー映画かRPGのようで興を削がれかねない。とはいえ、それを読ませてしまう筆力はただものではなく、次作を期待したい。この作品で決定的にいけないのは、急展開のハッピーエンド。瑠璃子と鈴丸の愛の物語であることは良しとしよう。でもね、なぜ鈴丸は唐突に現世(うつしよ)に戻ってきてしまうのか。戻れぬ宿命を抱えているのだから、それなりに大きな困難があっただろう。なぜそれを書かないのか。「すみません、姫、戻って来てしまいました」ではなかろう。読者は納得しない。それなら、幽(かくり)世(よ)に取り残されたままの方が良くはないか。
年々分かりやすい結末を求める傾向が強まっているのではなかろうか。長年学生とテキストを読んでいると、つくづく実感する。バッドエンドでもハッピーエンドでもはっきりしてくれという姿勢なのだ。ストーリーを追うことで自足する。物語の読み手が分かりやすさを求めているのだ。TBS日曜劇場『半沢直樹』大ヒットの要因は、話題になる顔芸や土下座パフォーマンスのみならず、黒白(こくびゃく)の単純さにあるだろう。ちなみに、私の『半沢直樹』への関心は、『東京物語』の引用や「小津のどんでん」をグレードアップしたカメラワークにある。
古市卓也「初めての夏」。これまでの古市世界に比べ、かなりすっきりすんなり読める作品に変貌した。私というわがままな読者には、それが逆に恨めしかったりする。古市卓也を読む喜びは、読者にすらすらと読み進めさせないことだ。この躓きが古市の美点であり、取っ付き難さともなる。それがやや薄れたかなとも思えるのが、喜ばしくもあり、悩ましくもあるということなのだ。例えば冒頭の「半分」「全部」「四分の一」といった比率の羅列。登場人物が意識のない父が入っている病院に居る時間を「家」に喩える。こうした特異な数字への拘りはなんだろう。娘の三久の名には「みんな仲良く」が含まれ、父・母・娘の三位一体を表すのか。一緒に冒険する同級生の二葉の名は父・娘の不完全数を表すのか。
病院の器具を「機械」という三久(「わたし」)は、初めて見た大学の黒板を「大きな黒い壁」と表現するグスコーブドリ(宮澤賢治「グスコーブドリの伝記」)を想起させる。古市卓也の主人公は、自働化せぬ、つまり擦り切れる前の言葉の獲得過程に立ち会うのだ。
だからこそ「初めての夏」というタイトルは意味深長である。二葉や入院患者の丹後さんに導かれ、三久は幽霊探しをする。幽霊が幽霊である所以を求める旅だ。私たち(主人公・語り手・作者・読者)が死者をいかにして死者たらしめるかという初めての体験なのだ。堂々巡りの果て、「記憶」こそ死者の条件と観ずるラストは感動的。現代哲学なら、古市卓也はさしずめマルクス・ガブリエルだ。
井尾青「鹿の娘」。「あわい」の発見は分からぬでもないが、総じて微温的。真山恵以子「風のむこう側」。ファンタジー仕立てにしようとしたノンシャランな風の視点設定が致命的。
工藤 左千夫
(くどう さちお)
選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住
●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1400名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。一昨年、創立30周年を迎え、30周年記念誌『心の宇宙に挑んで』を刊行。著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。
大賞とは、後世に残って然るべき作品のシンボルである
今回の選考会では、全ての賞(大賞、佳作、奨励賞)に該当作なしの結果が出た。当然、工藤も賛成、むしろそれを推奨したとも言える。賞なしは、第18回でも生じた。
今まで、繰り返し述べてきたことだが、その回の一等賞を決めるという意味で本賞を創ったわけではない。大賞とは、後世に残って然るべき作品のシンボルである。一方、佳作・奨励賞とは、出版社の編集者が校正・校閲に食指を動かされるだけの作品と言える。
今回は、どの作品も「帯に短し襷に長し」である。選評については、斎藤惇夫委員長のそれが、今回は群を抜いているので、ぜひ参考にしてほしい。
児童文学ファンタジー大賞も26回を数える。本賞があとどれだけ続くかは未定であるが、このままでは賞の晩節を汚す結果にもなりかねない、という危機感を主催者はもっている。今回で選考委員の松本なお子さんが、その任を降りる(昨年からの経緯)。今まで、長期にわたりご協力いただいたことに深く感謝いたします。松本さんが、ふと、「『鬼の橋』や『裏庭』レベルの作品に出逢いたかった」と言われたことが忘れられない。
来期の選考委員には脳科学者の茂木健一郎さん、そして詩人のアーサー・ビナードさんをお迎えすることが決まった。選考会の数日後、事前に斎藤委員長の了解を得て、お二人にお願いした。お二人とも快く応じてくれた。心から感謝を申し上げます。
児童文学の範囲は極めて広く、特にファンタジーについての評価は難しい。長年、その世界に浸っているからといって、ファンタジーが解るものではない。むしろ、それに浸りすぎている方々には新たな息吹を受け止める感性が不足しているように感じる。自分も含めて。
その点、茂木健一郎さんやアーサー・ビナードさんの感覚・感性は鋭い。ファンタジーの本髄は、既成概念の殻を、常に解体しつつ、現実の課題とどう接触させるかだ。ファンタジーは決して絵空事ではない。それを絵空事と思っている方は、自らの不勉強を恥じるべきである。そして、児童文学について、茂木さんやアーサーさんの造詣は極めて深いのである。
追記:古市さん、今まで佳作及び奨励賞を受賞し、何作かは上梓されています。物語の展開にはいつも苦労されていると推察します。今回はいけません。ドッペルゲンガー症候群(二重身)の素材は、かつて、多くの作家が取り組んできた課題。ドストエフスキーやアンデルセン、ル=グウィン然り。それらに比すれば、古市さんの作品は、その本質を捉えきってはおりません。