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ドーンDAWN29号

選考結果

大 賞 該当作品なし
佳 作 「なまこ壁の蔵」 原 あやめ
奨励賞 該当作品なし         

第27回児童文学ファンタジー大賞の公募は2020年11月から2021年3月31日までの期間で行われた。

応募総数175作。

一次選考において13作、二次選考では6作が通過。三次選考においては次の4作が候補作に決まり、最終選考委員に原稿を送付した。

「ふたごのネズミ」             藤原 道子

「銅(あかがね)の月」           竹之内 真代

「なまこ壁の蔵」               原 あやめ    

「おばあちゃん」              古市 卓也

最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、中澤千磨夫、工藤左千夫、新選考委員として茂木健一郎、アーサー・ビナードの各氏によって構成され、9月12日、小樽にて開催。本年はコロナ感染症防止のため、選考委員のほか、立会人、報道関係者、事務局で行われた。

選考会は、大賞推薦の有無から始まり、大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。

続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り、結果として、「なまこ壁の蔵」(原あやめ)が佳作に決定した。

受賞者のことば

原 あやめ

愛知県在住 73歳
名古屋大学文学部哲学科心理学卒
佳作「なまこ壁の蔵」 
306枚(400字詰原稿用紙)

つたない作品を入賞させていただきまして、ありがとうございます。

この作品は、2016年『峠』という大人向きの同人誌に、70枚程度の作品として掲載したものです。その時点では、親戚の家のお手伝いに入った桜子が蔵の中の住人、青山半蔵に出会い、お話を書くといった程度の作品でして、なぜ、彼が蔵の中にいたのか、なぜ桜子だけに見えたのかといった疑問も、あまり解消してはおりませんでした。

今回、コロナ禍でいろんなお稽古事や、同人誌の会がお休みになり、暇になりました。私は73歳、コロナで命を落としてもあきらめのつく年齢になっていました。一番初めに書いた作品がたまたま講談社の新人賞になり、商業出版をした私は、いろんな賞に応募もできず、無精者で、出版社に持ち込むこともなく、作品を三つの同人誌に書き散らしておりました。これをそのままにして去るのはあまりに情けないので、全部手直ししようと思い立ちました。そこで、まず、「なまこ壁の蔵」を250枚ほどに増やしたという次第です。

この蔵は、早死にで会ったことのない、夫の母親の実家の蔵です。ここに『夜明け前』の青山半蔵のモデルを一時的に匿ったという話を法事の際に耳にし、お話にしてみました。我が家はこの蔵で作ったお味噌を40年来いただいておりましたから、お礼の意味も込めて、書かせていただきました。勝手に作った話なので、ご先祖様はお怒りかもしれません。

歴史的資料もプロットも登場人物も、ノートを一切作りません。主人公に憑依して作品世界を経験して書き留めるという書き方なので、読者も念頭になく、自分に面白いものだけ書いております。苦労して、構想を練り上げ、何回も挑戦される方にはあきれられることでしょう。全く申し訳ないことでございます。

選後評

斎藤 惇夫
(さいとう あつお) 


選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。1970年、デビュー作『グリックの冒険』で日本児童文学者協会新人賞。1972年『冒険者たち』で国際アンデルセン賞優良作品、1983年『ガンバとカワウソの冒険』(以上全て岩波書店)で野間児童文芸賞を受賞。2000年に福音館書店を退社し、創作活動に専念する。2015年、小~高校時代を過ごした新潟県長岡市から、子どもへの読み聞かせや選書の大切さを伝え続けた活動が評価され、第19回「米百俵賞」を受賞。2010年に『哲夫の春休み』(岩波書店)、2017年に『河童のユウタの冒険』(福音館書店)、2021年にはエッセイ集『子ども、本、祈り』(教文館)を刊行。


登場人物たちをもっと愛してください!

最終審査に残った四作品とも懸命に読ませていただきました。『なまこ壁の蔵』を全員一致で佳作に選ばせていただきました。

私が今回最も強く感じたことは、登場人物たちを徹頭徹尾愛していただきたいということです。物語を完成する歓びは誰にでもありますが、登場人物を愛することは作者にしかできません。まず彼らを愛し、かれらにふさわしい物語を語り描き切ること。そうすれば4作とも、もっともっと輝くはずです。

ふたごのネズミ

 せっかく、静かにハタネズミたちの日常を描きはじめ、読者をベリー農園に案内し、その地下まで見せ、さらに「試しの日の旅」を設定し、動物ファンタジーにすることによって、ささやかな冒険や、愛や友情や集団や個人の結晶された姿を見せ始めていたのに、島加見博士の、獣たちを生きた剥製にするという、この物語にはあまりに異次元の世界を乱入させたために、物語を一気に爆破してしまった。失敗作。

銅 の 月

 最初から最後まで、ともかく物語を完成したいという作者の急く心が力みになり、見えてきた数枚の絵画をただ映し出しただけの、空疎な作品になってしまった。なぜ筆者が「耳なし芳一」の物語に惹かれたのか、平家の死者たちを鎮魂する、弔うということは、今を生きる作者にとってどういう意味を持っているのか。芳一と付き合った三代にわたる登場人物を通し、それを明らかにするのが著者の仕事(読者に対する礼儀)だったのではあるまいか。甘い。見えてきた人物たち一人一人に深く付き合うこと、「見るべきほどの事をば見つ」と海に没した平知盛の言葉に真摯に向き合うことなど、課題は多い。

なまこ壁の蔵

おそらく著者が見聞きしていたのであろう岐阜県の岩村の庄屋、のみならず明治末期の木曾が丁寧に描かれていて爽やかである。惜しむらくは、主人公桜子の友人紫をんの描き方が浅く、彼女が遺したノートから、桜子が彼女の物語を書こうとまでする姿が、読者には見えづらい。惜しい。また、桜子が藤島半蔵に会うのがいかにも唐突。ファンタジーにするために無理にこしらえあげた蔵の中での出会いである。最初から、桜子が時間を超えたものと出会う素質(物語を書く資質にも通じる)を持つものとして、少なくとも、桜子だからこういう経験ができたのだと、読者に驚きと納得を与えてくれなくては、物語の面白さが半減する。紫をんとの関係も含めて、桜子をとことん愛し、もっと丁寧に具体的に描いてほしかった。ひょっとしてリアリズムに徹して書けば、大胆に面白く、しかも史実に忠実に、子どもたちに歴史の不思議さを感じさせられるところまで描けたのではあるまいか、ファンタジーを気にしすぎたために、筆が躊躇したところがあるのではないか、とも感じられた。

おばあちゃん

死を迎えようとしているおばあさんと、孫娘が、同じ年ごろの娘として出会うことによって、死を、生涯を描き出そうとしたタイムファンタジー。豊饒な、しかも驚きに満ちた物語が予測できるのに、平板で退屈な話になってしまった。著者はこの物語で二つ致命的な誤りをおかした。一つはおばあさんの指を主人公が怪我させてしまうという事件である。歴史は、時間は変えられない! その緊張の中で作者がどれだけ生きた物語を書けるか、それが勝負なのである。残念ながら、この禁忌が破られたために、驚きのない話になってしまった。もう一つは、おばあさんの、少女期からの成長が、エピソードとして語られることはあっても、物語としては語られていないことである。したがって、主人公にとっておばあさんの死が、人間の、他の人とは変えることのできない独自な生涯の物語として描き切れていない。孫娘の経験になっていない、読者に一人の人間と出会う驚きと歓びを与えてくれないということである。持ち前の滑らかな文体で、主人公を通し、とことんおばあちゃんを愛し描いてほしかったなあ!

藤田 のぼる
(ふじた のぼる) 


選考委員
児童文学評論家/日本児童文学者協会理事長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●小学校教諭を経て、日本児童文学者協会事務局に勤務。児童文学の評論・創作の両面で活躍している。2013年に発表した創作童話『みんなの家出』(福音館書店)で第61回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。
主な著書に『児童文学への3つの質問』、『麦畑になれなかった屋根たち』(ともにてらいんく)、『山本先生ゆうびんです』(岩崎書店)、『「場所」から読み解く世界児童文学事典』(原書房、共著)などがある。

「なまご壁の蔵」の受賞に拍手 

今回は、ここ何回かの最終候補と比べても遜色ないというより、むしろ上回るレベルだと感じました。特に、「ふたごのネズミ」「なまこ壁の蔵」「おばあちゃん」の三作については、それぞれに独特の持ち味を備えたオリジナリティを感じました。

まず「ふたごのネズミ」ですが、動物ファンタジーとしてネズミたちの人物(?)設定、彼らの住処の舞台設定など、かなり周到にできていて、この作品にかけた準備のていねいさを感じました。ただ、読んだ後しばらくすると、どうも印象が薄いというか、思い出せるポイントが見つかりにくいのです。この作品は、ハタネズミの子どもたちが一人前になろうとする時に一緒に試練の旅に出るという、典型的なイニシエーションの物語ですが、結果として8匹のハタネズミたちが挑んだものが何だったのか、という点(ということは、獲得したものが何だったのか、ということでもありますが)に、いまひとつ説得力がなかったということになるでしょうか。前半の周到さに比べて、後半は島加見ハカセの造形も含めていかにも作り物の感があり、ハタネズミたちの魂(?)のつぶやきに、さらに辛抱強く耳を傾けてほしかったと思います。

次に「なまこ壁の蔵」は、選考ということをやや忘れて、引き込まれて読みました。何よりも主人公の桜子の造形が見事で、周辺人物にもリアリティがあり、彼女がこれからどうなっていくのか、読者として楽しみながらページをめくりました。桜子は明治44年生まれという設定で、選考会でも言いましたが、例えば大正7年創刊の『赤い鳥』創刊に子ども時代に立ち会うことのできた年代です。つまり、いわゆる大正デモクラシーの恩恵を受けることのできた世代なわけですが、しかしそうした恩恵を受けることのできたのは、かなり限られた階層でした。地主の家系ではあるものの、父親が早逝し、女学校には進めなかったという桜子の境遇は、こうした時代を描くのに格好の設定だと思いました。そして、この作品は島崎藤村の『夜明け前』のオマージュでもあることが次第に明らかになるわけですが、言わば日本の近代の挫折を描いたこの作品に対して、女性としての生き方に目覚めていく桜子の像を提出することで、近代の「夜明け」を描いた作品になっていると思いました。大賞には至りませんでしたが、児童文学にこうした歴史小説的ファンタジーが生まれたことを喜びたいと思います。

「おばあちゃん」の作者の古市さんは、最終候補の常連ですが、前回辺りから、作品がより「児童文学」になってきている感じを受けます。今回は、小学校六年生の結がおばあちゃんの見舞いのため母親と帰省、そこで不思議な女の子(実は祖母の子ども時代)と出会うという、枠組みとしては児童文学〝あるある〟のストーリーなのですが、結と女の子との対話には、大人の入り口にさしかかった結としての切実さを感じました。他の選考委員から「もっと短く」という意見が多く出され、僕もそうだなと思いつつ、短くするというのではなく、結の心の動きに沿った形での「整理」ができれば、(正直多くの読者は獲得しにくいかもしれませんが)対話型の成長小説になるのでは、と思ったりしました。

最後に「銅の月」ですが、もしも耳なし芳一が平家の亡霊たちの前で、最後まで語り終えたらどうなったか。あるいは、あそこで芳一が(耳は失ったものの)助かったのは彼にとって本当に良かったのか、という疑問が物語のモチーフという所までは共感できましたが、如何せん、芳一の時代、ヒロインであるうたの時代、そして現代をつなぐという仕掛けに無理があり過ぎました。それと、「成仏」という仏教的思念と「鎮魂」という神道的概念などが、作品世界の中で無自覚に(と感じられました)重ねられていることに、かなりの違和感を覚えました。


茂木 健一郎
(もぎ けんいちろう)


選考委員
脳科学者
1962年生まれ・東京都在住

●脳科学者。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。ソニーコンピューターサイエンス研究所上級研究員。東京大学、大阪大学、日本女子大学非常勤講師。2021年4月には広域通信高校の屋久島おおぞら高等学校の新校長に就任。近著に『クオリアと人工意識』(講談社現代新書)、『最強メンタルをつくる前頭葉トレーニング』(PHP研究所)など著書多数。


ファンタジーは人間の心の真理を映し出す「鏡」である。

ファンタジーとは何だろう? 私は、河合隼雄さんがおっしゃっていたように、さまざまな象徴や隠喩を通して人間の存在、生きることの真実を解き明かす助けになる芸術なのだと思う。最終候補作を真剣に読み、感じ、考えた。モチーフと会話、バランスと構造。それぞれの作者が力を込めて書いた作品は、どれも心を込めて向き合うのにふさわしいものだったとまずは証言する。

藤原道子さんの『ふたごのネズミ』では、扱われる世界の広さ(狭さ)が気になった。ネズミたちは「試しの日」の冒険に出るのだけれども、その範囲は農場の周辺に限られている。そのかわり、剰余としての世界の広大を引き受けるのは「永遠の森」であり、そこの記述をもう少したっぷり読みたいと感じた。ハカセの最後は機知に満ちていたが、そこに至るドラマの書き込みがあったらより効果的だったろう。文章は情感にあふれており、とりわけ、匂いの記述に非凡さを感じた。「シダの葉の匂い、朽ち葉の匂い、湿った土の匂い、朽ち葉の中にひそむ虫の匂い」に対するネズミたちの身体反応は、信じるに足る世界への入り口であると感じた。

竹之内真代さんの『銅の月』は、ナラティヴの視点が途中で切り替わることで多彩な主観世界を描いていた。平家の滅んだ武士たちが成仏するということについての、現代的な意味合いをもう少し突き詰めたら、さらに良い作品になっていたのではないか。「琵琶」や「月齢」などの物語を進める要素が、その向こうに深い象徴性があるというよりは、ラノベやRPGの道具のように感じられる傾向があった点は評価が分かれるのだろう(エンタメとしてはそれで良いという考え方もある)。「瞬きもせずに見上げていたのに、突然、目の前の月が赤黒くごつゴツゴツした石と化した」という表現には惹きつけられた。

原あやめさんの『なまこ壁の蔵』は、物語が語られるべき必然性が仕込まれている。その理路は、自身の人生は苦しみに満ちていた金子みすゞと基本的に同じだと感じた。時代設定や世界観が古風なのだけれども、それが、物語の最後の方で、全蔵おじさまの真意が明らかになることで俄然現代性を帯びてくる。フェミニズムや女性の解放、ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』につながるような意味合いが絡んで面白く読んだ。これは一つのcoming of ageの物語なのだろう。最後に花開く伏線も、エコロジーとの関連で興味深い。「山を守り、林を生かす。そして、洪水や、崩落から、部落の民を守る。」とてもいいと思った。

古市卓也さんの『おばあちゃん』は魅力と欠点がないまぜになった不思議な作品だった。文体やメタファーの用い方は、村上春樹さんを思い起こさせるところがあった。題材に対して、文章が長過ぎるように感じたけれども、それもこの女の子の日常を描くという意味では必要だという解釈もあり得る。いちばん難しいのは、男性である著者が小学6年生の女の子の立場で書くという構造に内在している問題群で、そのことに対して著者が自覚的であるかどうかはわからなかった。「想像してごらんよ。あの大きさの心臓なら、身体はどれくらいあるかって。そのうち胴体ができて、腕や脚が生えて、のそのそ動きだすとしたら」。このような「ハチの巣」にまつわる記述は興味深く、それがさらにモチーフとして深化したら作品が変わっていたかもしれない。おばあちゃんと女の子の間の物理的接触の「事件」が、深層心理的に人間の「真実」に迫っているように感じられないのが残念だった。

文学賞の慣例に従い、私自身の評価として、『なまこ壁の蔵』に「○」、『ふたごのネズミ』に「△」、『銅の月』と『おばあちゃん』に「☓」をつけて選考会に臨んだ。もっとも、敢えてつけた差に過ぎず、議論によっては自説を変えてどの作品も受賞作として推すつもりだった。


アーサー・ビナード


選考委員
詩人
1967年生まれ・広島県広島市在住

●アメリカ・ミシガン州生まれ。詩人、絵本作家、翻訳家。1990年来日。日本語で詩作、翻訳を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞、『ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞を受賞。現在は活動の幅をエッセイ、絵本、ラジオパーソナリティなどに広げ、2021年「ギャラクシー賞」ラジオ部門の大賞に選ばれた。エリック・カールの作品の和訳を手がけ、また『モチモチの木』(岩崎書店)の英語版を今秋、出版した。


人のファンタジーで相撲を取る

ミシガンでレストランを経営する幼なじみカートというやつは、なかなかの読書家でブックコレクター、珍しい本を入手しては得意げに報告してくる。文学の道に進んだぼくが知らない文学を見つけ出したりもする。十五年ほど前、一時帰国してレストランにお邪魔した際、彼はこう言って歓迎してくれた。「おまえと同じことをやった男が十九世紀にもいたんだよ! 知ってるか? ジャパンに渡ったラフカディオ・ハーンってやつ!」

ぼくはもう知っていた。けれど、もし日本に渡らずにアメリカでずっと暮らしていたなら、『怪談』にも『心』にも出合わなかったかもしれない。ハーンはそれくらい知る人ぞ知る存在だ。ニューヨークの古本屋でカートがたまたま『知られざる日本の面影』の英語版を発見して、ぼくと重ね合わせた。「おまえと同じ!」と言われ、あらためて小泉八雲に惹きつけられ、そのとき『耳なし芳一』を再読して、掘り下げたつもりだった。

第27回ファンタジー大賞の候補作がわが家に届き、最初に開いたのは『銅の月』だった。「浜辺へとつながる砂利道だった。芳一の草履の下で、いびつな石が音を立てて不規則に跳ね返り闇の向こうへと消えていく」

しょっぱなの一文で「耳なしだ!」とピンときた。作者は芳一の身になってその心をさぐり、たとえ命をとられたとしても、きっと彼は平家の亡霊ととことんつき合い、みんなが浮かばれるまで供養して奏でたかっただろうと、推量した。そんな心残りを見出した上で、ハーンにのっかって土俵に上がり、続編をこしらえようとした。

やはり、現代とつなげることが難しかった。平家の面々との対話も手ごわくて、ファンタジーの名手であったハーン本人でも、この続編は手に負えなかっただろうと思う。ただ、無謀ともいえる実験のおかげで、ぼくの『耳なし芳一』の読み方が深まった。

次に読んだのは『ふたごのネズミ』だった。農場のこまやかな描写から始まり、その奥に潜むハタネズミたちのコミュニティーが魅力的に描かれている。とりわけ重要な通過儀礼「試しの日の旅」が、ぼくの興味をそそった。主役のふたごは、おとなになるため出発して想定外のアクシデントがつづき、そのあたりからストーリーが変質した。

ぼくの感覚でいうと、ハリウッドに飛んで行っちゃった。ネズミたちの生態系が外され、他所から持ち込まれたテクノロジーが支配的になり、スケールの大きいファンタジーに化けた。最終的に行き着いたのは、これまたハリウッド的なハッピーエンド。生きのびたネズミたちが自らの体験を書き記し、ポジティブに語り継ぐ。アメリカで育った者にとっては既視感が強かった。

『おばあちゃん』を読んで、主役の結ちゃんの体験を一種の「試しの日の旅」として捉えた。思春期の彼女は、母親の実家で夏休みを過ごし、半身不随になって入院中の祖母と向き合い、やがて時空を超える二人の新しい秘密の関係が生まれる。死別する日が迫っているので、二人の間の距離が広がる感じだ。けれど、旅立とうとするおばあちゃんの体と心の変化と、おとなになっていく結ちゃんの体と心の変化は、ずっと共鳴しつづける。

ただ、一冊の大部分を占める結ちゃんの台詞と独り言の表現に、ときどき不満を覚えた。常識によりかかっているときだ。いとこの信くんとの会話にも、もっと鮮やかな個性が欲しかった。おばあちゃんが「遠いところに行きたい」と望んだが、読者のぼくももっと遠くへ連れて行ってもらいたかった。

『なまこ壁の蔵』には、最初から地元にしっかり根ざした力強さが感じられ、台詞が時代を豊かに醸し出している。生活のにおいも伝わる。同時に不思議な既視感も、早々と漂ってきて、やがてそれが『夜明け前』へとつながった。島崎藤村にのっかって依存している印象ではなく、発展させていることを感じた。ファンタジーの要素が少なく、しかも蔵の中の怪奇現象は、あまり迫力がなかった。むしろ人物に惹かれて読み進んだ。

そして主役が最後に、物語を書いて原稿を背負って上京するので、いささかできすぎに思えた。とは言え、藤村の土俵に上がって独特の世界を、確実に編み出すことに成功した。


中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)


選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

●専門は日本近代文学、映像詩学、現代文化論、考現学。全国小津安二郎ネットワーク会長。著書に『小津の汽車が走る時 続・精読小津安二郎』(言視舎)、『精読小津安二郎 死の影の下に』(言視舎)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)、『荷風と踊る』(三一書房)など。映画プロデュース作品に前田直樹監督『冬空雪道に春風』(2010年)、出演作品に篠原哲雄監督『プリンシパル~恋する私はヒロインですか~』(2018年)など。CFにDCMホーマック(2016年)、東急リバブル・娘との帰り道編(2016年)、津軽海峡フェリー(2017年)、チャペル・ド・コフレ札幌(2017年)、北海道米販売拡大委員会(2018年)など。MVにNORD「ゴー!ゴー!レバンガ~超えろを超えろ。~」(2018年)。


「作家はすべからくナルシストでしょう」と即座に突っ込めない私がいた。

昨年に続き、選考会は縮小気味の開催。でも、対面開催はグッド。おそらくは大きな変動の渦中にある私たちも、自覚の有無に関わらず、真底揺すぶられているだろう。TOKYO2020を強行したこの国の不全感は、いつまで漂い続けるのだろうか。児童文学ファンタジー大賞は、大きな足跡を残しているようだ。30年に垂んとする歩みに、あちらこちらから寄せられる期待が重い。選考会もいわばショーだから、参加者も当然意識せざるを得ない。新たにアーサー・ビナードさん、茂木健一郎さんを選考委員に迎えた今回、とりわけそんな感想を強くした。

古市卓也作品を初めて読んだであろう、お二人の第一撃。ビナードさんは、自分は詩人だから、「おばあちゃん」とにかく長い、「半分」にしたいと。これにはビナードさんの言葉遊びが巧みに込められている。冗長さについては、長らく、古市卓也に親しんできたほかの選考委員も頷くところ。藤田のぼるさんは、その独白的会話を削ってしまっては、古市らしくなくなってしまうと応える。茂木さんは、小六少女の語り手を作者たるオヤジナルシストの反映に過ぎないと強烈なガツン。語り口に見られる無意識ジェンダー感覚を気持ち悪いとも。うむ、悲しきかな。「作家はすべからくナルシストでしょう」と即座に突っ込めない私がそこにいた。後者についても、それをいっちゃあ、日本語崩壊だよね。

というわけで、古市卓也「おばあちゃん」から。今回の四作品は、皆それぞれに読ませるものだったが、私にはやはり「おばあちゃん」が群を抜いた作品と思えた。うそ/ほんとう、生/死といった哲学的命題を何度も呪文のように繰り返し考え続ける語り手の「私」とともに、読者の私も共に立ち止まって考えたくなる。半身不随で入院している祖母の「半分」とは何かなども。このくどさ、ねちっこさが古市の美質であると私は思うが、なかなか共感を得られないところだ。お祭りの映画会で、スクリーンの中や裏側に思いを馳せるのは、例えば、ウッディ・アレン『カイロの紫のバラ』、寺山修司『ローラ』、近くは山田洋次『キネマの神様』など想起させ、作者が意図していようがいまいが、知的な仕掛けに満ちたテキストになっている。「遠くに連れていって」という祖母の望みは、その死を完全なものとして受け取るということで、命は生きとおしているという達観に繋がっていく。小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』なら、「ターンオーバー」かな。ラスト、お祭りの神事できつねの波が押し寄せてくる場面の映像的描写は圧巻であった。船に乗っているのは「たとえば、誰」、というやりとりで、「たとえはたとえにすぎなくて、ほんとうじゃない」なんていう言葉遊びはたまらない。船に乗っていたのは「おばあちゃん」だった。

藤原道子「ふたごのネズミ」。沢山の登場ネズミを描き分ける手腕は見事。ただ、ハタネズミの冒険という必然性はあるだろうか。スティーヴン・キング『スタンド・バイ・ミー』や江戸川乱歩『少年探偵団』のごとき設定では駄目なのか。やはり、ファンタジー仕立てには動物が向いているのかな。「試しの森」の数々の試練を、歌うミミズ、毒を教えられること、青いドロップといった機械仕掛けの神的存在に助けられるのも安易だし、「永遠の島」のクライマックスが劇画かRPGのようであるのはいただけない。物語の骨にエコロジー思想が透けて見えてしまうのは、悪いとはいわないが、あからさまなのは物足りない。そこはさりげなく。

竹之内真代「(あかがね)の月」。アイデアは面白い。冒頭の工夫、初読の読者には分かりにくく、不要だろう。少女うたの言葉遣いが軽いのが気になる。耳なし芳一の課題と現代を生きる少年の課題が見合っていない。ここで発見された芳一の哀しみが、小泉八雲のレベルであるなら納得できなくもないが、『平家物語』のレベルにはとても到達していない。大げさに聞こえるかもしれないが、本居宣長でいえば、「もののあはれ」は『源氏物語』を越えて『平家』をこそ貫き通すというが如き視点が欲しい。

佳作受賞の原あやめ「なまこ壁の蔵」。土地勘に裏打ちされた方言駆使の会話が秀逸。私には、大正後半という時代設定の古さが現代の読者感覚としてどうなのかと思われた。だが、茂木さんは『鬼滅の刃』の例を出し、問題ないという。いわれてみれば、『ゴールデンカムイ』だってそうか。そんな狙い目もあるのか。桜子と対比される紫をんがもっと描かれてよいこと、ラストの汽車内でかつての縁談相手に出会うというのは予定調和に過ぎることなど不満がなくもないが、全体として島崎藤村もよく消化して読み応えのある作品。「破戒」が「破壊」といった変換ミスはご愛敬。「言行一致」は「言文一致」。でも、「言行一致」で通るのかなと考えさせるのが、作者の力量を示している。これは皮肉ではない。

選考会を終えた夜。北海道のいたるところに竜巻注意報。小樽も雷を伴う大雨。夜明けには大きな虹がかかった。来年も多くの力作を。


工藤 左千夫
(くどう さちお)


選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1400名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。2018年、創立30周年を迎え、30周年記念誌『心の宇宙に挑んで』を刊行。著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。 


大賞作品とは後世まで残り続けるスタンダード

今回の選考会から、茂木健一郎さんとA・ビナードさんに選考委員に加わっていただいた。脳科学者と詩人の参画は、通常の発想と異なる意見も多々あり、実に豊かな選考の時を過ごすことができた。心より感謝。

さて、今回の選考会はとても緊張感があった。来期が最後の公募となるというその焦りが一因と思われる。何とか大賞・佳作のレベルに匹敵する作品を選考したい、という思いは選考委員共通の願いであった。結果として、残念ながら大賞レベルの作品はなし、という判断により佳作及び奨励賞の選考段階に入った。

第1回から選考委員の任を担ってきた者として『裏庭』(第1回大賞/梨木香歩)、『鬼の橋』(第3回大賞/伊藤遊)の時のような緊張を感じなかったことは事実。大賞レベルの作品が応募してきたときは、選考会の雰囲気が違う。その空気感がまるで異なるのだ。その理由は、大賞作品とは後世まで残り続けるスタンダードととらえている。そのような作品を選出しなければ、という緊張感があったからである(『裏庭』『鬼の橋』は既に文庫となっている)。4~26回の選考会で大賞レベルに最も近似していた佳作作品は『かはたれ』(朽木祥)だけであろうか。あとはかすりもしない作品の応募が続く。そして今回を迎えた。

佳作受賞(「なまこ壁の蔵」)の原あやめさん、おめでとうございます。

大賞の域には達していないが、堂々たる佳作として満場一致。本作は歴史ファンタジーとして、明治、大正期を扱っている。その時代は既に歴史である。そのため、単純に現代の人間観と比較することはできないが、主人公及び脇役たちの関係やその(えが)かれ方に無理はなかった。

歴史文学の主軸は、その時代(混乱期)の多様な人間群像、その奥で密やかに光る「時代精神」を浮揚させ、そして現代に生きている我々との関連をフィクションとして展開することである。その点『鬼の橋』は平安期の実在の人物、小野篁を主人公にして先の課題の完成度が非常に高かった。また、ファンタジーとしてのスケールも大きく、大賞受賞に異論はほとんどなかった。原さんの筆力は手練れである。しかし、作品構成のスケールとして、どうか、ということだけである。

残念なのは「ふたごのネズミ」(藤原道子)と「銅(あかがね)の月」(竹之内真代)
である。藤原さんの筆力は認めるものの「永遠の島」のくだりで物語は破綻した。斎藤委員長が述べたようにこれは失敗作といえよう。

竹之内さんの「耳なし芳一」を軸においた発想は実に面白い。面白いのであるが作品としては全体の統一性を欠き、そのため物語が進行すればするほど作品の「アラ」が読者の怒りを買う、そのような作品になってしまった。アイデアが面白かっただけに残念である。もう少し『平家物語』や『耳なし芳一』を深読みしたあとに執筆する作品であったと思う。

古市さんの「おばあちゃん」は失敗作。一人の選考委員は評価したが、他はすべて反対である。当然、わたしも。書きすぎるのである。もう一度200~300枚程度の中編から訓練してはどうか。読後感を得るために。


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