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絵本・児童文学研究センターとは

ごあいさつ

故  河合 隼雄

特定非営利活動法人
絵本・児童文学研究センター 名誉会長(臨床心理学者)

生涯教育ということが、最近になって注目されはじめた。人間が死ぬまで成長を続けるべき生物と考えると、これも当然のことである。それが最近になるまで問題にされなかったのは、大人たちは現実に生きることの忙しさに追われて、そんなことを言っている余裕がなかったからであると思われる。

現在は、時間的にも余裕ができたし、人間の知識や技術も日進月歩で進んでいくので、生涯学習が可能となったし、また、必要とするようにもなったわけである。実際、高齢者社会と言われるように、長寿にはなったものの、ただ、何もすることがなくて、暇をもてあましているのでは、あまりに意味がないと思われる。

ここで心得ておかねばならないことは、新しい知識や技術を学ぶということは、いいことに違いないが、それだけでは不十分だということである。年老いてから、若者に負けずにやろうとしても、知的にも身体的にも劣ることは自明である。あるいは年老いてから、僅かの新しい知識を身につけたとして、いったいそれは何になるんだろう、などと考えはじめると、やる気も消え失せてしまうかもしれない。

人間は知識だけではなく、生きるための知恵が必要である。生きること、そして死ぬことの意味は何か、自分はどこから来てどこに行くのか、などの根源的な問いに答えるためには、それ相応の知恵が必要であり、それは知識とは異なるものである。知恵のない知識だけの人生は浮わついたものになってしまう。根無し草のようなものだ。

人生の知恵について、子どもの本ほどよく語ってくれるものは少なくない、と私は思っている。それは「子どものため」の本ではなく、すべての年令の人が読む価値のある本である。よく言うことだが、そこには「子どもの目」によって見た世界が描かれている。大人の目は常識や知識に曇らされてしまって、ものの本質が見えなくなっているとき、子どもの透んだ目は、ものごとを見透かすのである。

能率や効率第一と考え、すべての大人が「時間どろぼう」にだまされていたとき、少女のモモだけが、ことの本質をしっかりと見ていたのである。『モモ』を読んだ後で、われわれはモモの目を借りて、自分の生活全般を見直してみる必要がある。そこで得たことを基にして自分の生き方を変えてみる。このような努力をすることが、生涯教育というのにふさわしいであろう。  小樽の「絵本児童文学研究センター」が、子どもの本を中心にすえながら、それは「子どものため」だけではなく、生まれてから死ぬまでのすべての年令の人々に、生涯教育と取り組んでゆくためのセンターとして、今後ますます発展していくことを、期待する。

「ドーン」1号(本センター広報誌/1993年9月発行)より


工藤 左千夫

特定非営利活動法人
絵本・児童文学研究センター 理事長 兼 所長

「大人にとっての児童文化」

はじめに

児童文化の定義は様々です。そしてこの文化は、大人の常識だけでは測ることができません。一般的な意味として、児童文化とは、「子どもの心の成長」のための、子どもだけを対象とした文化だと考えられています。この考え方自体に誤りはありません。しかし、誤りではなくても、それだけが総てというわけではありません。

見出しの「大人にとっての児童文化」なるものが本センターのテーマです。そこで大人ということを考えてみます。真面目にそのことを考えれば、児童と同様に難しく、つきつめれば人間という存在そのものが難解なのかもしれません。しかし、「難しい」「難しい」と不平を述べていてもしょうがありません。そこで、多少、心理学的な世界を借りて、そのことを述べていきたいと思います。

大人という名の人間

大人になっていくということは意識的世界(自我を中心)が広がることと同義です。それに比して、就学前の子どもたちの世界は、無意識的世界(英雄願望・擬人化その他)で遊ぶことが、その特徴としてあげられます。そしてこの無意識的な世界の領域に、少しづつ意識的な世界(自我)が芽生え始め、その道程の延長に「大人」と呼ばれる人の在り様が育ってきます。

この子どもから大人への変化は、時代の影響を受けようとも、それほどの違いはありません。また、年を経て大人になっていくということは、子どもの心の領域がなくなることでもありません。それらは、徐々に無意識の中へ追いやられるだけのことなのです。

一般的に、子ども時代のことは「忘れた」となりますが、決して子どもの心の領域が失せたわけではなく、大人の無意識の世界ではしっかりと息づいていると考えられています。通常、このことが意識に昇ってこないだけなのです。  大人といえども、いや、むしろ大人になればなるほど心の微妙なバランスをとりながら生きています。このバランスを説明する紙面はないのですが、簡単に述べますと、「意識」「無意識」のバランス、その二つの世界が相補的に機能している状態といえましょう。

しかし、このことが難しいのです。  時代が次々と新しくなり、世の中が便利になり、知るべき事柄が増え続け、より高度な仕事が大人には要求されてきます。そのことによって、常に意識(自我)を最大限に働かせ、仕事や生活に邁進していかなければなりません。つまり、意識の緊張状態が、四六時中、継続することになったのです。

人間という生物は、心のバランスを必要とします。それは、人体の生理を考えてもそうです。人体は、「交感神経」と「副交感神経」のように異なった機能のバランスによって維持されている場合が多いのです。昼間、頑張れば、夜は睡眠をとって休みます。いかに体力があるとしても、幾日も徹夜で頑張ることはできません。このように、人間の心身は、一見、矛盾しているようですが、コインの表・裏のような機能によって維持されています。

大人になればなるほど、これらの二つの世界のギャップが如実に現われてきます。現実の生活は、時代が進めば進むほど、目覚める、つまり意識的な世界のみが、強調されやすくなります。これが大人という存在の現代的な特徴のひとつではないでしょうか。

児童文化と生涯教育の接点

このような亀裂に拍車がかかる条件が、近代から現代にかけてそろいました。

一つだけ、その原因を考えてみます。今から、百年以上前、いや戦後以降もそうですが、今世紀は科学や医学の進歩によって急速に「生涯年齢」があがりました。皆が長生きをするようになったのです。このことは否定的事柄ではありませんし、肯定的な科学や医学の成果と言えます。しかし、河合隼雄先生が「ふたつよいことさてないものよ」と述べておられますが、よいことを一つ得ていくということはそれに見合った負の領域をかかえることにもつながります。  かつて大人は、子どもたちを無事育てあげ、ようやくほっとした頃合に、アチラからお迎えが来ました。最近では子どもが育った後に、それに匹敵する時間が老後に与えられています。数年もするとあちらこちらに「きんさん」や「ぎんさん」が多く見られるようになるでしょう。

そうしますと、人間はどこかで心の亀裂なるものを修復し、そして自らのライフワーク(生きがい)を得ようとする欲求が必然的に生じてきます。  もともとこのような生涯教育の考え方は、欧米の研究機関から、数十年前に提起された事柄です。

その内容は、次のごとくです。

生涯年齢が低かった時代には、家庭や学校で得た知識等でそれなりに事は済んだのですが、今は、社会に出た後から、もう一度自分なりの課題に取り組むことによって、そこで培われた力が、長い人生を生きぬいていくための心のエネルギーになる、という考え方です。

長生きするということは、人間にとって、心の生き方の大変な課題を与えられたといえる時代でしょう。

本センターの意味と課題


この課題をどう取り組んでいくかが、絵本・児童文学研究センターにおける54回の基礎講座です。この課題なるものは「はてしない物語」です。

そのために、この課題の取り組みには、多様な考え方(例えば絵本・児童文学、発達心理学・深層心理学、哲学、歴史、その他)の自由な提起とその都度の整合性が必要となってきます。しかし、それは「解答」がでるものではありません。おそらく、答えなるものは、個々人の心(ソウル)が、自らの物語として、個別的に顕れるものではないでしょうか。

本センターは児童文化を基軸に据えた生涯教育の機関です。何故、児童文化を基軸にするかと申しますと、先程も述べましたとおり、意識的(合理的)な生き方を補完・補償する無意識的な文化として、重要な意味と意義が児童文化には充満していると考えているからです。

それに創造的な子ども時代の経験を誰もが有しているわけで、この心の活性化が、大人の心のバランスを回復する一つの窓口となり、そのことがまわりまわって、子どもの成長を促す一助になると本センターは考えているからです。

本センターの意味と意義はこれ以上でも以下でもありません。


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