アポリア6号


 発行日:1998年1月29日
 発行:絵本・児童文学研究センター
 企画:第1研究部
 発行者:工藤左千夫
絵本・児童文学研究センター10年の歩みU
創世期の思い出
 
絵本・児童文学研究センター所長 
 工藤左千夫
 
 1992年6月(本センター開設4年目)、小樽にて本センター主催の第1回セミナー「大人への児童文化の招待」が開催された。規模の大きさはいうまでもなく、来樽された諸先生の顔触れも豪華であった。(河合隼雄、神沢利子、佐野洋子、たかしよいち。道内からは加藤多一、柴村紀代、松居友)
 
 参加人員も1000名(前売券完売)を超え、基調講演・4つの分科会など、内容的にも豊富。後日、東京のエイデル研究所から『大人への児童文化の招待』上・下巻が刊行された。
 
 本センターにとっては、文化の社会的還元という初めての企画であり、その規模から言っても忘れることのできないイベントであった。特に、河合先生と本センターとの出会いは印象的。
 
 見送りのバス中で河合先生は「100名以上のスタッフが的確に動き、また一人一人の顔つきが、よい意味で、皆、異なっている……。」とお誉めの言葉をいただいた。この意味は重要である。特に、今後の文化運動を展望する上において、極めて重要である。文化の重要性は多言を要しない。しかし、文化運動が組織的運動に成熟していくためには、常に、「全体ー個」の普遍的課題を意識していなければならない。そのような意味において、「顔つきが一人一人異なる」とは、文化運動の継続に際しての重要な課題といえる。
 
 第1回文化セミナーの準備は、開催の2年前から始動した。その年次は、センター1周年祝賀会を催すために、会員以外の人々のご協力を得た時であり、その催しがきっかけとなって本センターに「運営委員会」(現理事会の前身)なるものができた年でもある。運営委員長に、現会長の越前谷幸平さんをお迎えできたことも大きな収穫であった。
 
 その運営委員会で企画されたのが第1回の文化セミナーである。委員(5名)の満場一致で、「このような規模のセミナーには、河合隼雄さん以外考えられない……」との認識で一致。しかし、河合先生への道程は遠かった。多くの人々のご協力を得て、幸便にも河合先生とのコンタクトが取れた。天にも昇る気持ちで、当時、松居友さんと2人で京都に向かう。
 
 大会は、とにもかくにも無事終了。セミナーの成功がセンターの飛躍につながって行く。後日、今後のセンターの方向性を決定付ける事柄が二つ生じた。一つは、セミナーの運営に際し「大会実行委員会」を設置して、今までセンターと縁遠い多くの方々が、実行委員として協力していただいたこと。そして、その方々を中心として理事会、評議会が設けられたことである。
 
 2つめは、河合先生の顧問就任である。理事会の意向を受け、河合先生のもとへ工藤が伺ったのは8月の京都である。北の人間にとって、その季節の京都は苦しい。まして、顧問就任のお願いである。訪問先の「国際日本文化研究センター」の迫力によって、ますますわたしの心が萎えていく。「河合先生、本センターの名誉顧問になっていただけませんか」
 
 「駄目ですね……。」
 
 気落ちした私の全身に河合先生の声が再び聞こえる。
 
 「名誉を取り外した顧問であればお受けしましょう。しかし、お金はいりません。」
 
 「工藤さん、セミナーの成功の後は大変ですよ。」
 
 と様々なアドバイスをいただく。
 
 以来、河合先生のご尽力のおかげで、いづれ紙面で述べていくであろう、多くの事業が展開されていく。 
・河合先生による本センターの正会員のための定期的(年1回)特別講座の開講
・児童文学ファンタジー大賞の創設
・第2回文化セミナーの企画
(大江健三郎・河合隼雄・谷川俊太郎)
・公益法人(全国社団法人)化の展望
・情報センター開設における企画
・様々な書籍の出版・刊行
・その他
 
 どれをとっても、河合先生の暖かいご支援・ご協力によってなされたものばかりである。しかし、先生のご協力に対して何一つお返しができていない。センターの5年後や10年後の「在り方」に期待しての、先生のご協力に対して、今、センターはどの段階まできているのだろうか……?


 「情報と文化」
 ― 「情報」化のゆくえ ―
 
 北海道文学舘 事業課長
 絵本・児童文学研究センター 評議員
 平原 一良
 
 東北以北随一だという。60余万冊の品揃えを誇り、コンピュータで客みずからが希望する図書・雑誌の在庫の有無の検索もできるのだという。そんな「情報」を家人に教えられ、新聞記事と折り込みちらしとの両方で確かめて、オープン3日目のその郊外型書店に2人で向かった。10月某日の休日も暮れかかるころのことだ。
 
 国道に沿ってクルマを走らせてほどなく、ど派手なネオンに縁取られたその店はすぐわかった。だだっ広い専用駐車場はすでに満杯で、隣のさらに派手なパチンコ店(当節これをパーラーという)の駐車場へとガードマン氏に誘導され、クルマを置いていざ見参。左ウイングにはドーナツ店。さらに2Fにはレコード・CDの店、右ウイングには文具ショップ。これらに囲まれて、道東から進出(?)したというその書店は、正面の広々とした壁面のガラスから皎々と光を放っている。
 
 最初の自動ドアから一歩踏み入り、出入口の泥落としのマットの上に立って、私は「おおーっ」と驚く。同伴者も「ほーっ」とかなんとか溜息をついた。広い。明るい。なにより品揃えが豊富らしく見える。
 
 というわけで、物見高さを発揮してコンピュータのあくのを待って、私は数台の機械のうちの一台の前に腰掛け、さっそく目当ての図書を検索してみた。結果は在庫なし。ないことに妙に納得しながら、店内を一巡したのだが、たしかに棚に並んだ書籍のうちには街なかの大手書店にないものも多くあって、結局10冊ほども買い込んで家人のヒンシュクをかってしまったしだい。
 
 60余万冊といったところで、近年発行された書籍・雑誌の総点数からすればせいぜいその何分の一程度なのだから、目当ての本がなくても驚くにはあたらない。取り寄せがきくのだから、少し待てばよいのである。と思いながらも、欲求不満を少し覚えながら帰途についたのは、最近、情報の入手を急ぐことが多く、待つことに不慣れになりつつあるからなのだろう。私(たち)は、新しいもの(店)の登場に立ち合って、つい過大な期待をいだいてしまうけれども、100%期待を満たしてくれるものなどあろうはずもない。しかし、そのことを知るためにも「情報」の真偽については、まず自分の目で確かめねばならないのである。かようなあたりまえの教訓をその日は得ることができたのだった。
 
 帰宅後、まずはパソコンの前に坐る。その日も同じだ。ウィンドウズを立ち上げ、ニフティ・サーブに接続し、電子メールを読む。新着のメールがあって必要であれば返事を書き、送信する。仕事がらみで、ヨーロッパからのメールなどが混じっていると、少しばかり居住まいを正してしまう。大概は友人知己からのプライベートなものが多いから、どちらかといえばこの時間帯は楽しい。新着メールがなければ、HP(ホームページ)へと移行し、主催する笠井嗣夫さんのところに届いたメンバーのメッセージを読む。ここには、現代詩の現状や出版などにかかわる貴重な情報がたっぷり含まれている。画面をスクロールしながら、現代詩(戦後詩)、家族、神戸の少年による事件、近況などなど、書き込まれたばかりのそれぞれのデジタル化されたテキストに見入る。面白いのは、論客同士が互いに相手への思いやりを示しながら論争を継続していることだ。かつて雑誌や新聞などでよく見られたいささか私憤、私怨の勝った陰湿かつ因循な翳りのある「論争」とは似て非なるクールなやりとりが好きだ。デジタル化されたものゆえ、とばかりはいえない、互いの距離のスタティックな測り方がそこに反映されている。自閉的な電脳空間ではないのである。
 
 そしてインターネット。ビル・ゲイツが特に好きでもないのだが、なじむとMSNの画面は手放しがたい。10万件のアドレス掲載本を手にせず、たいていはYAHOO経由で道外の文学舘や図書館、美術館などの発信した情報、文学・芸術分野の人々のホームページを読む。1回の出張や取材では得られないほどの情報があったりもする。必要ならプリントアウトする。海外のホームページにアクセスすれば(時として金もかかるが)、例えばさまざまなアーティストやジャンルの動きが瞬時に見てとれる。これも楽しい。
 
 楽しい楽しいと書くと、いかにも情報の検索や蒐集は気楽で暢気な手慰みめいてしまうが、もちろんそれがすべてではない。人間のメモリー・バンクの容量には限界があるはずだし、私(たち)の記憶力は不確かでもあるから、それを補うためのパソコンとの付き合いなのだ。私の内なるアナログ型尾てい骨は確実に残存してもいるので、そこで10冊もの本を無分別に買い込み、さらには懲りもせずに数日前にも同じことを繰り返している。書物に浸食されるウサギ小屋での生活は、全く愉快ではない。加えてパソコンの侵入である。周辺機器が新たなスペースを要求する。家人のシブい表情は尤もなのだ。
 
 私のなかの「情報」化はここ2年のうちに進み、かつてとは日常の行動パターンすら変わってしまったが、それが私の「文化」的な転換にあたるのかどうか、そのことを確認するための「情報」を新たに検索する必要がある。その作業はけっして楽しいことではないし、そのゆくえもさだかではない。
 
 (1997.11.10)
 

 シリーズ私を語る U
 
 形而上詩を追いかけて41年
 
 詩人・英文学者 
 和田徹三
 
 今年9月、私の編集する詩誌「湾」が第100号記念号を発行することができた。この雑誌が創刊されたのは、41年前の1956年であった。「湾」は形而上詩の雑誌として創刊したのではないが、その頃私はT・S・エリオットの「形而上詩人論」(1921年)を読んでいた。これはエリオットがH・J・C・グリアソンの『17世紀形而上詩集』(1921年)に触発されて書いた形而上詩人論で、このなかで取上げたジョン・ダンの詩「聖遺物」の一節「金髪の腕輪」が日本の詩壇でも話題になっていた。墓のなかで腕の骨に絡んでいる金髪と腕輪の鮮烈なイメジ結合にわれわれは感動した。この論文でエリオットは形而上詩の概念規定を避けたが、有名になった「思想をバラの花のように香らせる」詩が形而上詩だといっているだけで、ジョージ・チャップマンを賞讃した言葉のなかに、「思想の直接的把握、あるいは思想を感情に再創造する働きがある。」という一節があった。引用したチャップマンの詩には思想の形象化による直接把握はあるが、感情の再創造と思われぬ節(ふし)も感じられた。しかし、エリオットの考えている形而上詩の姿を想像することはできた。こうした曖昧さのあるエリオットの形而上詩論を受けて、発展させたのがハーバート・リードで、彼の『形而上詩の本質』は1923年、エリオットの主宰する雑誌「クライテリオン」に掲載された。
 
 リードの形而上詩論はダンテの「幻像に変えられた思想」という言葉から出発する。そして、ダンテの作品を検討しているうちに、ダンテの思想形象化作業のなかに「情緒」が加えられていることを指摘する。本来かかわりのない情緒と思想であるが、思想が情緒に溶解した時、思想は冗漫になることを中止すると考えた。彼はダンテ作品のほかにダンテの先輩であるグイド・カバルカンティや彼の尊敬していたルクレティウスの詩作品、それにジョン・ダンやジョージ・チャップマン等イギリス17世紀形而上詩人達の作品を渉猟し、近くはワーズワスの『隠士篇』に例をとり、勝れた形而上詩は、みな視覚的で形象(イメジ)が豊かであり、しかも、情緒的に処理されていることを力説する。そして、形而上詩は「思想が情緒的に把握」されたものであり、「思想の視覚化」されたものであるという結論に到達する。ここでいう「思想の視覚化」は思想を生で表現するのではなく、形象(イメジ)に変えるということで、形象(イメジ)は象徴(シンボル)を内蔵し、思想を暗示する。象徴(イメジ)は比喩(メタファ)になることが多く、比喩(メタファ)がつらなると寓喩(アレゴリ)を形成する。また、思想を情緒的に把握するということは、思想の表現上の「経済」であって、思想が情緒に溶解されて、主体性を失った時に、イメジによる収斂作用がはじまるので、この収斂過程が濃縮(コンセントレーション)であり、そうしてこそ思想が詩に高められるのである、と説いている。以上がリード詩論の概要である。
 
 私は、「湾」創刊後間もなく上京の折、若い仲間の沢村光博に、このリード詩論の話をしたところ、彼は小跳りするほど喜んで、私に形而上詩論の連載を奨め「湾」を形而上詩の研究と実作の場にしようと提案した。というのは彼は既に力ソリシズム思想を背景にした詩を書いていたからである。私は彼の意見に賛成して帰ってきたが、さて詩論の連載をはじめたら、途中で休む訳にはゆかないし、どんな難関が待受けているかもしれないと思うと、なかなか筆が持てなかった。沢村から度々督促状を貫ったが、いつまでもぐずぐずする私に業をにやして、自分がかわりに書くといいだした。彼の形而上詩論の連載がはじまったのは「湾」が発足して3年目の1958年7月発刊号であった。勝れた評論家でもあった沢村光博の形而上詩論はなかなか説得力のある文章であった。私は、詩論を沢村にまかせて、長篇形而上詩の実験作品を連載することにした。「神話的な変奏I」は1959年11月発刊号からはじまった。そのうち、沢村の詩論は「形而上詩論」という標題を変えて、様々なテーマに移っていったが、私の実験作品は号を重ね、終了したのは1969年11月発刊号であった。この長篇は翌70年『神話的な変奏・自然回帰(じねんかいき)』として求龍堂から出版された。西脇順三郎先生が褒めて下さったのが一番嬉しかった。西脇先生は東京で出版記念会をやろうといいだし、鍵谷幸信が先生の使いで走りまわってくれた。記念会は中野の普茶料理店「ホトトギス」で行われたが、西脇先生は風邪のため出席できなかった。村野四郎、高橋新吉、籐原定、安藤一郎、伊藤信吉等50人ほど出席した盛大な会であった。私はこの年の第4号を批評特集号とした。大岡信、星野徹、山本太郎、鷲巣繁男、沢村光博、三沢浩二が執筆してくれた。その頃、沢村光博はカソリシズムとコミュニズムの結合を企てていたし、私は親鸞思想へ激しく傾斜していった。このことが二人の間に溝をつくり、沢村は「湾」を去って、2、3年で病没した。惜しい人物を失ってしまった。しかし、私は運よく長篇作品の縁で沢村に勝る生涯の友人星野徹を得ることができた。その時点で、私は自分の詩論の連載を決意した。
 
 当時上京の度に西脇宅を訪ねていたが、ある時この詩論のことに触れた。西脇先生は、形而上性のない詩は詩ではないが、いわゆる形而上詩にむかうことの危険を説いた。それは自分を限定してしまうからである。私が総て承知の上で進めようとしていることを知ると、応援を約束し、この詩論の展開に若干のサゼッションを与えて下さった。こうして、「形而上詩論ノート」がはじまったのは1976年第60号で、やっと終了したのが1988年第83号であった。内容は「はじめに」「形象(イメジ)・象徴(シンボル)・観念(アイディア)・暗喩(メタファ)・寓喩(アレゴリ)」「ジョン・ダン形而上詩とエリオット、リードの対応」「イギリス形而上詩とエリオット、リードの対応」「イギリス形面上詩の周辺」「エリオットの形而上詩論」「H・リードの形而上詩論」(1・2)「わがダンテ」(l・2)「わがブレーク」(1・2・3)「わが『四つの四重奏』」(1・2・3・4・5)「おわりに」の19章構成で、いまはない篠田一士が解説を書いてくれ、1989年『形而上詩論素稿』という書名で沖積舎から出版された。篠田一士はこの書物の進行中に急逝した。その上、西脇先生はこの書物の完成を待たず、とうに亡くなっていた。計画の概要は説明してあったが、先生が読んでくれたのは「わがブレーク」までであった。私は献辞でこの本を先生に捧げたが、しばらくの間痛恨の思いが胸を去らなかった。
 
 さて、長篇詩集上梓の後、私は短篇形而上詩の実験をはじめた。最初の作品は「窓」「指」(1971年)の2篇で、「窓」は2行1連のカプレット形式、「指」は散文詩だが、私の短詩のほとんどがこのカプレット形式で、4連構成が最も多く、なかには5連6連構成のものもある。標題は全部一文字で、一文字は短縮の極限であり、一文字せせりという蝶のように遠いところまで真っしぐらに飛んでいってほしいという願いもひそかに含まれていたかもしれない。私はこの連載作品群を纒め『虚』(1978年)『白と黒のポエマティア』(1988年)の2冊の詩集にした。
 
 私はこの短篇詩の連載中に『浄瑠璃寺幻想・華』(1983年)と『大経ファンタジア・神話』(1986年)、この2冊の中篇実験作品を書下ろしで出版した。続けて、やはり中篇作品『永遠―わが唯識論』(1992年)『亀の歌』(1996年)の2冊は「湾」に連載後に出版した。書下ろしの作品に一つの傾向があることがわかった。それは叙述内容の広い作品には構成作品一篇一篇に詩的配慮がゆきとどかず、叙述の充実に傾いてゆくということであった。これはせっかちな自分の欠点にも関係があると思い、書下ろしをやめて、短期間の連載に戻したのだが、結果はやはり同じであった。私は当年88歳、余命いくばくもないので、これからは短篇の充実に力を尽くすことにした。前述の通り今年100号を迎えた「湾」記念号に私は3篇の短詩を発表したが、ここにそのうちの2篇を再録してお目にかけたい。
 
 讃1
 
 無量寿佛は 〈空〉です。 〈空〉は 大悲です。
 
 大悲のなかで 私は
 毎日 生かされています。
 
 感謝の花で 私の胸は
 いっぱいです。
 
 ここには 時間があって 時間はありません。
 ただ 〈現在〉だけが 白熱しています。
 
 讃2
 
 浄土は〈空〉の苑です。
 花の香りだけが たちこめています。
 
 〈空〉に回帰した〈こころ〉は
 みな 一体の〈空〉です。
 
 〈空〉はこの世を包む 優しい光です。
 無常をつきぬける 厳しい光です。
 
 浄土は 美しすぎるほど 何もない
 静かで 明るい苑です。
 
 そこは 無量光の苑
 無量寿の苑です。

 私は数10年来、主として曽我量深、金子大栄両先生の著書に学び、親鸞に傾倒してきた。いずれの宗派にも属さない自分だけのシンラニストである。親鸞は人間の動物性に大肯定を与えた科学的な合理主義者で、人間に死後のないことを説いた。「讃1」では私の生き方に触れ、「讃2」では教典を背景にした浄土幻想に一石を投じた。〈空〉観念は形象化しない方がよいと思うと、オード調の情緒がからんできた。これらの諸篇を読者諸賢はどう読んで下さるだろうか。
 
 私の胸のなかで瞬く形而上詩の理念に私の実作が追いついているとは、どうしても思えない。恐らく死の間際まで追いかけていることであろう。しかし、この執念が私を長生きさせている原動力かもしれないと思うと、苦笑がこみあげてくる。
 
 GAKUTO(平成9年11月5日発行)より
 
プロフィール
 
 1909年北海道余市町生まれ
 和田徹三(わだ てつぞう)
 詩人・英文学者・評論家
 著書『和田徹三全集』(全5巻)
 詩集『白と黒のポエマティア』
 エッセイ集『わが鎮魂の歌』
 評論集『形而上詩論素稿』 他
 訳書 H・リード詩集『フィーニクスの変容』
 (共に沖積舎刊)
 

 連載
 
 「書物と人の女性史 U」 
 ― ジョン・スチュアート・ミルと『女性の従属』 ―
 
 小樽商科大学教授・付属図書館長
 絵本・児童文学研究センター 理事
 倉田 稔
 
 ジョン・スチュアート・ミル(JohnStuartMill,1806-76)は、19世紀のイギリスで最も有名な大思想家であり、『自由論』(1859年)、『経済学原理』(1848年)、『論理学体系』(1843年)、その他の著作で知られた。『自由論』では、特に、日本にも大きな影響を与えた。その上、彼は、名作『女性の従属』(TheSubjectionofwomen,1869)の著者なので、女性解放論史上でも高名である。ただし、ここで記したように、原著は、『女性の従属』であるが、なぜか、日本の翻訳では、『女性の解放』となっている。
 
 ミルは、ジェームズ・ミル(1773-1836)という、高名な、これまた高名な思想家の、息子であり、幼い時から父による天才教育を受け、学校に通わなかった。長じてから、先に記したように、経済学、哲学、政治論で、立派な作品を書き、大思想家とされた。経済学でも、アダム・スミスの『諸国民の富』を発展させ、古典経済学を総合させたとされる。そして彼は、資本主義内での社会改良を唱えた。ミルは、良心的なイギリス自由主義を代表した。
 
 ミルは、ハリエット・テイラー夫人と精神的恋愛をした。だが、彼女には夫がいた。ミルはその後、彼女の夫が亡くなってから、彼女と結ばれた。知り合ってから20年後のことであった。この恋愛はヨーロッパで有名である。
 
 ジョン・スチュアート・ミル本人の言によれば、『女性の従属』は、ミルとハリエット・テイラーとの共著なのだと言う。人間的に知的に大変魅力のある彼女との会話の中で、ジョン・スチュアート・ミルは、女性の社会的地位の問題に開眼し、本書を書くことになった。ミルは、女性を男性と対等視し、社会的に進出する女性を応援し、社会の女性への偏見と闘った。
 
 彼は、本書『女性の従属』で、次のように述べる。ただし、この時代は男女が法律的に不平等の時代であった。
 
 男性の女性支配は、暴力と感情とによっている。女性の社会的政治的従属は、正当ではない。それは、人類発達の上で、大きな障害になっている。女性の男性との完全な平等が、実現されなければならない。女性が無能力でなくなることは、歴史が語っている。女性が男性に劣っていることを、誰も証明できない。今の結婚は法律上、女性が不平等であり、正しくないし、悪い影響がある。法律上、男女が平等であることは、夫婦にとって唯一の正しい関係であり、家庭を道徳的にする。働いて収入をえるだけの実力は、女性の尊厳のために欠くことができない。多くの知的な、種々の職が男性に独占されている。男性と平等な機会を女性に与えると、多くの利益が生ずる。―――以上である。
 
 ただし、ミルは必ず女性が職業的に働くべきだとは言っていない。女性の選択に任せるべきだと言う。
 
 本書は、『女性の解放』の名で、岩波文庫で翻訳がある。
 
 さらにミルは、イギリス議会で、女性に選挙権を与ようと提案をした。ただし、これ否決された。この時、イギリスの議員たちは、ミルを大思想家として見なすことはやぶさかではないが、女性に参政権を与えるようなことはとんでもないと、反対した。そんな時代であった。

 ミルは、その後、選挙法改正や土地国有化運動に参加しており、彼は単なる言論だけの人ではなかった。本書は、女性論史上、有名な点では群を抜くものとなった。
 
 ジョン・スチュアート・ミルについて、よりくわしく知りたい人には、ミルの『自伝』(1873)がある。
 

 BOOK GUIDE
 
 神沢利子著
 『いないいないばあや』
 
北海道武蔵女子短期大学 教授 
絵本・児童文学研究センター 評議員 
中澤 千磨夫
 
 「いないいない、ばあ!/いないいない、ばあ!」というこの作品の書き出しから、私などがすぐに想起するのは、寺山修司脚本・監督の映画『田園に死す』(1974年)の冒頭である。アヴァンギャルドを絵に描いたようなこの映画の興奮についてここで語る余裕はないが、とりあえず、墓地で「もういいかい?/まあだだよ」と目隠しをしているおかっぱの女の子が手を取ると、一緒に遊んでいた子どもらがなぜか大人になってしまっているという不気味なシークウェンスに言及しておけば足りるであろう。クロースアップされた幼女の残像。「実際に起こらなかったことも記憶のうち」。こんな台詞に込められる記憶・時間の支配という寺山の過激なメッセージに、神沢の作品を無理やり結びつけようなどと思っているわけではない。ただ、『いないいないばあや』の不気味な始まり、それこそ、語り手の言葉を借りれば、橙子を襲う「なんともしれぬもののけじみた恐怖(きょうふ)の影(かげ)り」に象徴される時間への恐れ、言い換えれば喪失への恐れが、この物語の主調低音だといってみたいだけなのだ。
 
 タイトルだって、「やあ、ば(婆)、いないいない」。別にふざけているわけではない。「とこちゃんはいないとこにいっちゃった」とか「いちように白い眼帯をかけた一つ目のひと」といった言葉遊びもある。小さなことではない。作者の言語センスの問題なのだ。「雪消水(ゆきげみず)」などというゆかしい言葉もさりげなく使われる。回文崩れのひらがなタイトルを逆さにしたり、横にしたりしてみたのは、おそらく私だけではあるまい。
 
 戦前の札幌を舞台に、幼稚園へ通う橙子という感情豊かな女の子の目を通した人・町・自然。それは、戦後の札幌に生まれた私にもなつかしい。札幌神社や堤防(豊平川の)といった固有名詞にすぐさま反応してしまう私のような人間は、もしかしたらこの作品の良い読み手ではないのかもしれない。年少の読者にもなにがしかのなつかしさが感じられるとしたら、それは作品の持つ品格によるだろう。過去を語るというスタンスを一貫して保っていることが、語り手と橙子にほどよい距離を与えており、気持ちいい。
 
 さて時間。買い物に行くばあや、会社へ行く父、学校へ行く兄。「しかし、時間がくれば、みんなはふたたびすがたを現すのだ。いないいないばあと同じだった」。こう橙子は思う。自分が生まれる前もどこかに隠れていたのだとも。橙子の考えは幼いなりに、死や性にも向けられる。哲学的課題に満ちみちているのだ。左官屋の職人辰さんの、鳥だけではなく、犬や馬や人間だって卵を持っているのが女だという言葉に橙子はとまどう。自分のおなかにも卵はあるのだろうか。ままごと遊びの時に払って死なせてしまった小さな蟻。キラキラと青く光るしらす干しの目。ありとあらゆるものに橙子は時間の不思議を感じてしまう。

 父の転勤で一家は樺太へ移ることになったが、ばあやは札幌に残ることとなる。やはりばあやがいなくなる時はやってきたのだ。不安を押して未来を引きうけようとする橙子。樺太で橙子を待つのはどんな時間だろう。
 
 (1997.10.18)
 
 岩波少年文庫・本体631円