アポリア3号


 発行日:1996年12月10日
 発行:絵本・児童文学研究センター第1研究部
 発行者:工藤左千夫
 緒言
 1996年、その軌跡

 絵本・児童文学研究センター所長
 工藤 左千夫

 師走には、多忙感がにじみでる。
 そして、このような時期には、その年を回顧(懐古)する性(さが)が人間にはあるようだ。
1996年1月9日、小樽(本センター)は希有な豪雪から始動した。その日は、本センター内勤者の初出勤の日。
 早朝、外を眺めると道が失せている。日常感覚は途切れ、とにかく職場へと急ぐ。3階の部屋の窓から陽光は射さず、窓の効力は失せていた。職員への連絡(電話)も無理と判り、日常と非日常の狭間(ファンタジー的感覚)に、私は一人で佇む。

 3月末、第2回児童文学ファンタジー大賞の応募締切が近づき、本センターの内勤者と第1事業部(ファンタジー大賞などの公益事業を担当する事業部)のメンバーに緊張が走る。4月には1次選考、5月に2次選考(当月には第8期受講・通信会員も入会)、7月中旬には、3次選考会も終了して、最終選考の各委員へ大賞の候補作品を送付。順調!
 7月末から8月中旬迄の「夏休み」を得る。
 
 4月、本センター第2事業部より、読書手引書第2分冊「本とすてきにであえたら」(小学校1〜2年生用)が刊行。3ヵ月ほどで、1千部の注文殺到。今後の2年間で、残8冊の刊行予定(ただし、予定は決定に非ず)。
 5月、本センター第1研究部より、季誌『アポリア』刊行。本誌は以前の『大きなお世話』の変貌を願って企画されたもの。
 
 8月22日、河合隼雄氏(本センター顧問)のご好意によって「児童文学における悪」の講演会を開催。新たな課題(今まで、避けられていたそれ)をもとにした展開は、また一つ、本センターの貴重な財産となる。
 同月、(1)第2回児童文学ファンタジー大賞の記念講演会(11月2日)の演題、そして(2)第1回児童文学ファンタジー大賞受賞作『裏庭』(梨木香歩 理論社)の出版記念(10月31日)の概要が決定。
 (1)は、鶴見俊輔氏の講演と河合隼雄氏との対談、共通の演題として「気配への手がかりとして……宮澤賢治を読む」
 (2)は、神沢利子氏と梨木香歩氏の対談「物語がたちあがるとき」――梨木香歩、神沢利子にきく――この対談は、本センターと北海道武蔵女子短期大学との共催として企画されたもの。

 9月28日、河合隼雄氏による本センター正会員への定期特別講座。演題は「物語とふしぎ」。
 翌日には、第2回児童文学ファンタジー大賞の最終選考会の開催。佳作として「なるかみ」(伊藤遊)が選出された。(大賞選出には到らず)
 
 この他にも、第2研究部と図書部との共催による「絵本研究会」の発足、本センターの基礎講座(年間240回)と正会員ゼミ(年間75回)の全日程も大過なく終える見通し。関係各位には、心より感謝。

 1997年は、1月の京都研修旅行(国際日本文化研究センター)と第3研究部企画の新刊案内書の刊行から始動。
 最後に、11月2日の夜に挙行した、記念祝賀会(第2回児童文学ファンタジー大賞・第1回児童文学ファンタジー大賞『裏庭』出版記念・本センター第6期生修了記念)において、来賓の挨拶をいただいた、鶴見さんのスピーチの1部を掲載して、本年の締めとしたい。「本席(6期修了者含む)に男性が多く居ることは大切なことだ。子どもの世界を女性だけに押しつけることには問題がある。それは、倫理的な観点ではなく、そのことが男性の生き方を、とても貧しいものにしている。そのような意味において、絵本・児童文学研究センターの54回にわたる基礎講座は、そのトレーニングとしても重要……。」
 
 
 オピニオン
 「ボーダーとボーダーレス」
 北海道情報大学助教授
立花 峰夫

 「ボーダーレス」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、いったいいつ頃からであろうか。中野収の「ボーダーレス社会」(border-lesssociety)の解説に、「実際、教師・生徒との間の権威関係の消滅、ユニ(モノ)セックス、男女の分業関係の消滅傾向は、この20年間確実に顕在化し、そのつど話題になっている。」(『imidas』)1991年版)とあるところからすると、1988年代からということになろうか。1988年からとする『現代用語の基礎知識』1989年版)の指摘もあるが、いずれにせよ「男と女、親と子、教師と生徒、大人と子供の間の文化的差異が確実に減少している」(同)社会的現象を指す言葉であることだけは間違いない。

 「ベルリンの壁」の崩壊に象徴される米ソの冷戦構造が終焉し、体制やイデオロギーの違いが意味を失い、政治的・経済的な相互依存の間係が強まり、一方、科学技術の高度化とともに情報化社会が出現し、地球規模の環境問題が現実の問題となるに及んで、一気に国際化・情報化の時代が訪れたといってよい。事態は政治や経済にとどまらず、思想・哲学・教育・宗教・芸術・ファッションなど、われわれをとりまく文化・社会全般にわたっていた。それは中野がいうように、「近代文明が頂点をきわめようとしているという意味合いと、ポスト・モダン(脱近代)の始まりとが含意されてい(同)た」のである。

 近代的国家の成立によって与えられた「国境」(ボーダー)という観念が、一つの「制度」一つの「幻想」にすぎないことが、崩壊する「ベルリンの壁」そのものや、「EU」なる国境なき(ボーダーレス)国際社会の動きによって明示されたが、それに先立ってすでにさまざまな既成概念の「境界」もまた、それまでの確固とした輪郭を失い、あいまいなものとなり始めていた。近代に対する本質的な懐疑が、現実社会ばかりでなくさまざまな物事のボーダーレス化を生み出していたのである。

 これまで先験的なものとして受け止めてきた日本近代文学もまた、「日本」・「近代」・「文学」それぞれの自明性を剥奪され、いわばアイデンティティーを喪失した状態でわれわれの前にあるといってよい。

 ところで、かつて前田愛は、「物語のコードが信じられていたということは、世界が理解可能な何かとしてあること、そしてまた世界の連続性が疑われなかったことを前提にしているわけです。しかし、20世紀小説は、むしろこの世界の理解不可能性を描く作品が多くなってきている。」(『文学テクスト入門』)と、小説それ自体が揺るぎ始めていたことを指摘していたが、われわれをとりまく現実世界はますますつかみどころのない混沌としたものとなり、小説それ自体が成立しにくくなっている。そうした事情を、野口武彦は「1960年代の急進主義(ラジカリズム)、70年代の原理主義(ファンダメンタリズム)、80年代のポストモダニズムの諸季節を経過した今日、小説になにが問い直されているかを考えてみることは無駄ではあるまい。90年代に第一線に進出してきた新世代の作家たちは、「新世代」であろうとするかぎり、どうしても目前の人間的現実、あるいはむしろ人類学的カオスと直面しなければならない。作家は個人である。裸形の一人称をもって世界の前に立つ。ところが世界現実たるや、解体とか崩壊とかをとうに通り越して、じゅうぶんアミーバー蠕動的、高分子化合的、乱流運動的、心身分離的。……等々の「超」錯綜体ときている。小説の「人称」は不定人称となり、「話法」は話者不明法とでもいうべきものに転化する」(一語の辞典小説』)と語っているのである。

 前田の紹介したロトマンの主人公論に従えば、「ボーダー」がなければ、「越境」する「主人公」は存在しえず、「物語」も成立しにくいことになろう。それはまさしく現在の文学状況であるといってよい。しかし、一方で、1つの時代を覆い尽くす「ボーダー」が取り外されたとき、はたしてすべてのボーダーが雲散霧消してしまうのであろうか。むしろ抑圧し隠蔽されていた無数のボーダーや、あるいは新たなボーダーがそこに見い出されることになるのではないか。「ボーダーレス」時代の中で小説の生き延びる道は、そうした新たな「ボーダー」を想像的にとらえ超越していくところにあるのではないか。
 
第2回児童文学ファンタジー大賞記念
講演会
 「気配への手がかり」とは何だろうか
 ― 鶴見俊輔さんの講演を聴く ―

 あくまで自己中心を貫きながらも共に歩く道を探る。そんな細き道を、僕たちは現在、歩いている。「一人で共に行くこと」の意味。それについて、立ち止まって考える、そしてまた歩き出すこと。それが、鶴見さんが、今回残してくれた、大きなそして重い置き土産。千歳空港の到着ゲートからでてきた鶴見さんは、子供のようなとても柔和な笑顔をしていた。出迎えの緊張感が一挙に雲散していく。

 小樽へと向かう車中は、さながら移動教室のようであった。「小樽には、小樽高商という学校があったでしょう。あの学校は、偉大な先生が出ている。それを僕は戦前アメリカで知りました。」とか、「たしか小樽の緑小学校は、綴り方運動の北方の拠点であったはず。」といった言葉が、次から次へと溢れ出てくる。鶴見さんの博学は、書店に本がある如く当たり前のことだが、今回、「それは、少し違うぞ。」という認識を持たされた。鶴見さんは、知識としての言葉を、それを話しているわけではない。なんというか、知恵としての言葉、自分が生きて考え続けてきたこと、立ち止まっては考え蓄積してきたことの凝縮された言葉なのだろうか?それが僕の中で確信に変わっていったのは、講演会「気配へのてがかりとして宮澤賢治を読む」を聞き終えた時だった。
 
 「気配への手がかり」とは何だろうか。

 日本の近代が築いてきたものは、抽象的思考性を積み重ねた垂直構造―それは、「秩序を、より高次な秩序へ」というヨーロッパの思想を、一応は、模倣したものとして現れる。それに対し鶴見さんにおいては、「混沌―秩序―混沌」という流れを示し、混沌の時代には、抽象的思考では、対処できない「気配の感覚」が、重要な要因として立ち現われる。その手がかりとして、鶴見さんは宮澤賢治の「それは、一応はまちがいではあるけれども、まったくまちがいとは、いわれない。」という詩の一節を抽出する。世の中の常識的な行き方・社会のシステムに足をおろしながらも、自在に広げる翼を持つこと。この翼こそが「気配への感覚」なのだ。

 また、宮澤賢治は、伸縮自在(elasticity)な読まれ方をしている作家であり、その一つとして、鶴見さんは、「自分は、殺した。殺すのは悪い。」(『きけわだつみのこえ』より)という読み方を紹介する。最後まで闘った人間は、偉い。だが、闘えない人間は、立ちつくすしかない。弱い人間が、立ちつくし、考え続ける中に、人間の思想を見る。なにか、宮澤賢治の「デクノボーの思想」と絡み合い、僕の中を言葉ではない何かが、あえて言えば、言霊としかいいようのないものが駆け抜けていった。

 ふと目の前が、涙でくもった。体全体が熱いベールで覆われたように感じた。鶴見さんが50年以上かけて言い続けていることが凝縮された講演。それが、僕が冒頭で言った「知恵としての言葉」だと思う。

 でも、鶴見さんは、決して最終的な解答を指し示さない。答えを出すのはあくまでも、僕達一人一人なのだ。それこそ最後の時になっても、自分には何ができるのかを考え続けなくては……。

 講演に引き続いて行われた、鶴見さんと、河合隼雄さんの対論もとても刺激を与えてくれた。

 ここでは、河合さんの奮闘ぶりが、ひしひし心に伝わってきた。鶴見さんの少年のような笑顔を引き出し、鶴見さんの話からファンタジーを引き出し、会場を笑い声でいっぱいにしてくれた。この人の大きさをまた改めて感じた。

 兎にも角にも、感動の一日は終わった。大きな幸せとささやかな覚悟、そして明日への勇気を与えてくれた一日だった。

(文責 岡田吉史)
 
第1回児童文学ファンタジー大賞『裏庭』出版記念 
 対談
 「物語がたちあがるとき」
 ― 梨木香歩、神沢利子にきく ―

 10月31日、午後6時30分より、札幌の北海道武蔵女子短期大学において、神沢利子さんと梨木香歩さんによる対談「物語がたちあがるとき(梨木香歩、神沢利子にきく)が行なわれた。

 上記の企画は、北海道武蔵女子短期大学「創立30周年」と絵本・児童文学研究センター「第1回児童文学ファンタジー大賞『裏庭』」の刊行を記念して、同大学と本センターの共催で執り行われたものである。

 来賓各位(手嶋圭三郎/高楼方子/伊藤遊〈第2回児童文学ファンタジー大賞佳作 受賞者〉)の紹介と同大学学長、小林晴夫氏の挨拶、これらのセレモニーを終えて対談が開始された。

 進行の経緯は、神沢さんと梨木さんの「現在の心境」を、各々、20分程度のミニ講演で表明。その後は、2人の質疑応答に終始した。(梨木さん→神沢さん)
 
 冒頭のミニ講演において、神沢さんは次のように述べていた。

 何をしても長続きせず、失敗ばかりしてきた自分であったこと。しかし、そのような自分が童話を書き始めてから、既に、35年の月日を経たこと。そして、そのような月日への感慨と創作を継続してきたことの意味を語り、今までの自分を支えてくれた人々や自然に深い感謝の念を表明した。

 さらに、創作(例えば、動物を題材とした作品創作)に向かう話の件では、「神沢さん」が顕著に語られる。
 
 「書いているときには、それになりきっている自分がある。理屈や頭で考えて、創っているのではない。動物の主人公たちが、子ども時代の自分とお話をする。そのように、大好きな動物たちのことを書き、自分が幸せになれることがとても嬉しい。」
 (『神沢利子コレクション』によって、本年度「路傍の石文学賞」を受賞。)

 『くまのこウーフ』の質問に対しては、この作品が生み出されてきた背景を語る。「よく物をなくし、そのために捜しものをする」「卵を割ったときに、ふと、卵は偉いと感じる。白身と黄身がいつもおなじように現われるから……。」

 このような時に、ふと「自分は何でできているんだろう」という想いに浸り、この作品へと繋がっていった、と述べていた。(この作品は、童話を書き始めてから10年目の作品)

 梨木さんは、「神沢さんの作品に出てくるクマは、理想的なボーイフレンドですね」と一言。

 梨木さんは、神沢文学の優れたファンの一人なのだろう。神沢文学との出会いを「飛行機が離陸するような、風が吹き抜けるような」感じ方をしたという。
 
 話は思春期の人間像にたち向かう。『いないいないばあや』や『裏庭』の主人公は13歳。

 13歳というのは、社会での新人感覚が強いので、あらゆるものが新鮮に見えている。大人は、子どもの頃に「えっ」と思った、あの感覚が鈍くなるような軌跡を辿る。「えっ、どうして、これおかしい」という視点で書き続ければ、それは13歳頃の視点をもつことになるらしい。これは両氏の一致した感想であった。
 
 ここで、梨木さんの造語「ファンタジー筋肉」について。

 ファンタジー筋肉とは「自分と外界とをうまく微調整するときに必要な心の筋肉。これが弱いと、内面で生じた様々な心の葛藤が出口を求めて、筋肉(ファンタジー筋肉)を素通りして外に出てしまう。結果として、短絡的な行動を起こし易くなる。

 この筋肉を鍛えるためには本を読む必要がある。そうすれば、ファンタジー筋肉なるものが活性化され、めったなことでは、心がへこたれない。現在の子どもたちは絶望的なほど、このファンタジー筋肉を使わない(使えない)。」
 
 終局に、梨木さんは、感情がスパークするとき、それが「物語がたちあがるとき」ですよね、と神沢さんに同意を求める。静かに頷く神沢さん、その姿が美しい。梨木さん(会場の聴衆)のリクエストで、神沢さんの「七月深更古鍋御託」(しんこうふるなべのごたく)を、神沢さんが自ら朗読。拝聴。
 
(文責 赤尾敦子)
 
 スポット
 第2回児童文学ファンタジー大賞
 最終選考会 一間一答
 
 9月29日、小樽グランドホテルにおいて、第2回児童文学ファンタジー大賞の最終選考会が開かれた。選考委員は、河合隼雄(委員長)/神沢利子(副委員長)/佐野洋子/清水真砂子/中澤千磨夫/工藤左千夫の6氏。本年の応募総数は173点。最終選考会においては、1次・2次・3次選考を通過した5点の大賞候補作についての選考審議が行われた。

 今回は前回よりも応募数は滅ったものの、全体的な水準としては、それを上回った感が強い。そのような理由によって今回も大賞選出への期待がふくらんだ。しかし大賞の該当作品はなく、佳作として「なるかみ」が選ばれた。

 昨年の最終選考会では、第1回ということもあって、白熱した論議(ファンタジー論を含む)に及ぶ。そのような、テンションの高い前回の選考会に比して、今回のそれは、やや落ち着いた雰囲気に終始した。しかし、テープを起こすと、各選考委員の作品評価の厳しさに変わりはなく、作者の心の奥底までを見透かすような議論の展開に、あらためてファンタジー大賞の厳しさと重みを実感させられた。今回は、大賞選出までには到らなかったのだが、見方を変えるとそれだけこの賞の水準を表しているように思われた。

 記者会見においての佐野洋子さんの言葉には、印象が残る。「佳作の選出とは異なり大賞の選出においては、自分の好みで云々はできない……。」

 大賞と佳作との境目には、さまざまな壁があるのだろう。その壁とは何か?
 
 前回の選考会では、「癒し」が論点の中心となっていた。今回においても、その課題は踏襲されていた。「癒しというものが、心ではなく頭だけでなされている。」と述べていた一人の選考委員の感想に、児童文学ファンタジー大賞のアポリアがあるようだ。その具体的な実感は、前回の「産みの苦しさ」であり、今回での「育てることの難しさ」と言える。
 
 (以下、記者会見の内容の一部)
 
 Q 「なるかみ」が大賞に選ばれなかった理由は?
 
 A 京都の伝説を踏まえて、なかなか上手に書けている。しかし、この作品には、もっともっとファンタジーの膨らむ余地があるようだ。多少、歴史に引きつけられた感も強く、また、中学生の男子が主人公ということもあって、最近のステレオタイプ口調の傾向が強すぎる。もう少し、書き手の心の中から出てくる表現が望まれる。(河合)

 
 Q 日本的な作品は、ファンタジーと結びつきにくいのではないか?

 A そのようなことはない。また、日本的なことをやらねばならないという限定もない。ただし、ファンタジーは自分の存在に根ざさなけらばならない。(河合)

 
 Q 児童文学のファンタジーとはどういうジャンルのものと考えるか?

 A 子供の目で見ていること。この「子供」というのは大人よりも劣っているというのではなく、大人がびっくりする目をもっているということ。大切なことは、曇らない目で見たそのような真実を語ること。心の中の世界というものは、すぐに外的なことで語れないことが多い。それらは、ファンタジーで語ることができる。(河合)
 

 Q ファンタジーをゲーム感覚やオカルト的なものとして捉えている風潮についてどう考えるか?

 A ファンタジーというものは、現実があり、その現実と向き合い、その壁を越えようとするときに生まれてくるもの。別の所にあるものを持ってきても意味がない。(清水)
 
 A ゲームやオカルトでは驚かない。そのような既成なものを先にもってくるようではだめだ。自分の中からわき出るもの、生み出されてくるものでなければファンタジーとは言えない。ファンタジーで作為的に何かを作ろう とするのではなく、現実を見据えることが大切である。その結果として、ファンタジーが生まれてくる。(河合)
 
 (文責 淡路里美)
 
 

 BOOK GUIDE
 梨木香歩 著 『裏庭』
 北梅道武蔵女子短期大学助教授 
 中澤千磨夫
 
 いい本に仕上がったなと思う。モノとしての本書についていうのである。ロジェ・シャルチエ(『書物の秩序』)のいうように、書物という物質的な形態もまた、意味を構築する。四六判ではなくA5変型判と少し大きめの判にしたことが、矢吹申彦の装丁を生かしている。裏庭の黒い木立を基調としたカバーに緑の枝葉をあしらった本体。定価が1400円と低く抑えられたにしては、ずいぶんと気張っている。ここ何日間か持ち歩いていた私の手に、汗も吸収してか、しっとりと馴染んできた。やわらかな質感が、心地よい。裏表紙に描かれた穴を見つめているうち、裏庭の世界に引きこまれてしまいそうな気がしてくる。

 夕闇が「その辺りのどこよりも早く訪れ」るというバーンズ屋敷は、いかにも異界の入口にふさわしい。昔から子どもらの格好の遊び場だが、今は住む人もなく荒れ放題。中学生の照美も小さいころは塀の穴を通って、よくその庭で遊んだものだ。だが、もう学校や塾が忙しくて、屋敷のことは話題にも上らない。その照美が、久しぶりに屋敷を訪れるきっかけになったのは、親友の綾子のおじいちゃん(丈次=ジョージ)から聞かされた秘密だ。大鏡を通って裏庭に抜けられるという秘密。「裏庭は、死の世界にとても近い」という。照美は、ママ(幸江=さっちゃん)にその話を聞いてもらおうとするが、とりあってもらえない。両親はレストランを経営していて、とても忙しいのだ。夕食さえ、共にできない。さっちゃんもまた、母親が好きではなかった。可愛がってもらった経験にとぼしいので、娘の可愛がり方が分からないのだ。この家の不幸が、祖母の代から根深く引き続いているという設定が、いかにも重くつらい。さらに、照美(この家)には悲しい思い出がある。6年前、双子の弟の純が、バーンズ屋敷の池に落ち、それがもとで風邪をこじらせ肺炎で死んだのだ。その時、一緒にいた照美は、ハンカチで純の顔を拭いただけで、タ方まで放っておいた。純は出産時の事故のため、「知恵遅れ」だった。第3次選考でも話題になったことだが、この語を「知的障害者」などといいかえなかったのは、これでよかったと思う。差別語や言葉狩りについて言及するゆとりはないが、裏/表やありとあらゆる存在の循環により世界=全体は回復されるというこの作品の思想の決めとして、backyard(裏庭)とbackward(後方へ、発達の遅れた)は響きあっているからだ。

 ファンタジーの出来不出来を左右するのは、何より日常の描き方の成否。本書ではテルミィの世界が、ぺージ上部の小枝のレイアウトで区別されており、読み手は二つの世界を容易に分けて楽しめる。再読の際、私は、そんな気ままを試みてみた。驚くべきことに、その二つの世界のいずれもが、それぞれの物語として自足しているではないか。わけても、現実世界の確かさには、舌を巻いた。

 英会話教室をサボった照美は、久しぶりに屋敷に入った。「この庭特有の草木の匂い」により、小さいころここで遊んだ記憶が、鮮やかによみがえる。そう、プルースト。ほかにも随所で、視覚優位の近代において劣等感覚とされる触覚や嗅覚の役割が強調されているのは注目すべき。あの池の所では、今まであまり考えててもいなかった純の死の責任が、まざまざと見えてくる。「そうだ、あれは私のせいだったんだ。だからパパとママは私が許せないのだ……」。

 次の日、照美は屋敷で、丈次のいっていた鏡を見つける。周りの木枠には、蔓薔薇と竜の凝ったレリーフが施されていた。それを触っているうちに、『フーアーユー?』という声が響く。照美は反射的に『テ・ル・ミィ』と応じる。こうして、照美はテルミィとなって鏡の向こう、裏庭の世界に誘われていく。少女が背負うには、あまりにも苛酷な大冒険が待ち構えている。ついには道案内のスナッフを殺してしまう。一つ目の竜の目玉を、その化石の眼窩に押し込む時に達する境地はすさまじい。「テルミィの心に開き直りのようなものが生まれた。それは、自分はかつて人を殺した、そして今また国を滅ぼす、という冷たく静かな自覚だった」。裏庭の世界で幾人もの先達に導かれ、ようやく現実に帰還した照美は、「さっちゃんの知っている照美とはどこか違」い「大人びて」いた。照美が獲得する「自分と母親はまったく別個の人間なのだ」という認識は、人は別個であるがゆえに分かりあえるという認識にまで通ずるであろう。それが、わずか1日での成長なのだ。ユーリ・ロトマンのあまりにも有名な主人公の定義(越境/変化する者)を想起するまでもなく、照美は、私たち一人ひとりになり代わって、心の傷を癒す裏庭への旅をなし遂げたのである。
 
 (1996.11.25)
 (理論社・1,400円)
 
 事業部・研究部のお知らせ
 
 総務部
 第9期生募集開始!
 本センターでは、来年5月より開講される、第9期(受講・通信)会員の募集を開始した。募集の問合わせは総務部まで。
 
 第1事業部
 第3回児童文字ファンタジー大賞募集
 本センターでは、第2回児童文学ファンタジー大賞の終了に伴い、第3回目を全国に公募した。
 募集締切は1997年3月31日(消印有効)。例年のように、4月(3次選考)5月(2次選考)・7月(3次選考会)を経て、9月には最終選考会が開催される予定。
 
 第2事業部
 読書手引書(3〜4歳)の刊行遅延のお詫び
 1996年、8月中旬に予定されていた読書手引書『すてきな絵本にであえたら』(3〜4歳)の刊行の遅延を心よりお詫び申し上げます。
 1997年1月の下旬に、刊行致します。もう少々、お待ちください。
 
 第3事業部
 さらなるご協力を!
 第3事業部では、下記の事業を椎進することにより本センターの公益事業経営の安定化をめざしております。そのための収益事業計画もあと一歩で達成の見通しがつきました。各位のご協力をお願い申し上げます。
 ・公益事業支援バザー(終了/目標達成)
 ・講演会事業(目標達成)
 ・書籍販売の手数料収益・・・『日本語と日本人の心』『裏庭』その他。
 
 第1出版部
 長期展望を探る
 第1出版部は長期展望のもと、その内容について、来年にはご報告できるものと確信しております。
 
 第2出版部
 本センター10周年をめざして
 第2出版部では、本センター10周年記念刊行物の準備と正会員E・J倶楽部の依頼を受けて正会員への会 報を刊行致します。
 
 財務部
 賛助会員の拡大をめざして
 財務部においては、本センター財務委員会の指示のもとに賛助法人・個人会員の拡大をめざしています。各位の細やかなご協力を!
 
 第1研究部
 ・第1回アポリア賞該当なし!
 『銀の馬車』の感想文を数多くお寄せいただきました。今回は、慎重審議の結果、大賞の選出は見送られました。講評は、アポリア新年号の誌上にて行ないます。
 
 アポリア新年号広告掲載のお願い
 本誌は、各位の善意の広告にて運営されております。しかし、刊行費用の半額にすぎません。その補填のために広告を新年号において掲載いたしたく各位のご協力をお願い申し上げます。
 
 第2研究部
 河合隼雄 正会員ゼミ
 9月28日、小樽市民センターにおいて、河合隼雄正会員ゼミが開かれた。本ゼミは、昨年に引き続いて2度目。
 今回の演題は、『物語とふしぎ』(岩波書店)で、「たましいの真実」を語る児童文学の魅カがテーマである。
 講義は、『物語とふしぎ』というタイトルの意味から始まった。
 「ふしぎ」という心の感覚は、人が忘れがたい体験をするおりに生じるもので、その説明しがたい体験を心に納得させるために、人には「物語」が必要であること。また、自分がこの世に生をうけたそのことが、実際のところもっとも「ふしぎの中のふしぎ」であり自分の人生を歩むことが「物語」であると、河合氏は述べていた。
 以下、児童文学の作品を例にして、「自然とふしぎ/ふしぎな人物/ふしぎな町/ファンタジー/時のふしぎ」についての話が展開され本年の講義を終了した。
 
(文責 松田朋子)
 
 第3研究部
 待望の新刊案内書、刊行迫る!
 本センターの基礎講座・正会員ゼミでは、スタンダードの書籍を多く扱っている。その補填として、新刊の案内・紹介の企画が望まれていた,この要望に応える案内書の刊行が、1月より始まる。
 購入希望者(年間講読…3回・300円)は、速やかに総務部まで。
 
 図書部
 正会員対象のゼミビデオ貸出の企画
 正会員ゼミは1年間のサイクルで行なわれている。新正会員にむけて、過去のゼミビデオ(工藤所長担当分)貸出を、今後、2ヶ月以内に準備する。
 ・「昔話の深層」全9回
 ・「ソフィーの世界」全10回
 
 正会員E・J倶楽部 発足
 9月28日、小樽マリンホールにおいて河合隼雄先生のご臨席(正会員ゼミの前)のもと、正会員の会「E・J倶楽部」が発足。
 詳細は、倶楽部会報にて。