ドーンDAWN18号


選考結果

〔選考結果〕

大 賞 該当作品なし
佳 作 「夏の朝」    本田 昌子
奨励賞 「くらひめさま」 小川 英子


 第16回児童文学ファンタジー大賞の公募は2009年11月から2010年3月31日までの期間で行われた。
応募総数251作。
 一次選考において15作、二次選考では6作が通過。三次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。


  「ユ ウ」      奈雅月ありす
  「くらひめさま」   小川 英子
  「夏の朝」      本田 昌子


 最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、小寺啓章、高楼方子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2010年9月12日、小樽にて開催された。
 選考会は、大賞推薦の有無から始まり、結果として大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
 続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り、「夏の朝」本田昌子が本年度の佳作に、「くらひめさま」小川英子が奨励賞に決定した。

受賞コメント

本田 昌子
(ほんだまさこ)

千葉県在住  51歳
山口大学卒
佳作「夏の朝」
280枚(400字詰換算)

▼受賞コメント

 原稿用紙に向かってペンを走らせていると、ふいに体が軽くなって、湖の中をゆっくりと沈んでいくような感覚にとらわれることがあります。
 湖の底には、水面から差し込んでくるわずかな陽の光が揺らめいているだけ、目を凝らすと、岩や藻の陰に隠れるようにして、小さな石が点々ところがっています。その小石は、湖の外から投げこまれたものには違いないのですが、いつ頃から、どのような経緯があってそこにそうしているのか、私自身にもよくわかりません。
 小石を拾いあげると、長いあいだ湖の底で水流に洗われ、砂粒にもまれていたせいなのでしょう、程よく角が取れて丸味を帯び、つやつやとした輝きさえ放っています。
 私は、小石をいくつか拾い集めて、再び水面へと上昇してゆきます。そうして書きかけの原稿用紙の上にそれらをひとつずつ並べていくと、それぞれから広がった波紋が重なり合ってひとつの模様を描き始め、その中におぼろげではありますが、一本の道すじのようなものが見えてくるような気がするのです。
 今回、応募いたしました作品の中で、その小石は遠い日に失われた懐かしい故郷の光景であったり、そこに流れる小川のせせらぎや草花の匂いや、家族や友人たちと交わした他愛もない言葉であったりしました。それらがいつ、どのような形で私の中に放り込まれ、どのくらいのあいだ陽の当たらない記憶の底でじっと埋もれていたかは定かではありません。覚えがないほどにささやかで、取るに足らなかったものたちが今、長い時を経て確かな輝きを持ち、かけがえのないものとして私の手の中にある不思議を、しみじみと味わっているところです。
 二年前の奨励賞に続き、このたびもまた素晴らしい賞をいただき、なんと贅沢なことだろうと心より感謝しております。これからも精進を重ね、また新たな気持ちで、湖の底に置き忘れたままにしている小石を探しに出かけたいと思っております。
 ありがとうございました。



小川 英子
(おがわ ひでこ)

神奈川県在住  60歳
二松学舎大学卒
奨励賞「くらひめさま」
186枚(400字詰換算)

 「糸魚川(いといがわ)」を書かねばならない、自分の生まれ故郷を、育った家を、書かなくては前に進めない──そう思い始めたのは、何時からでしょう。たぶん、創作を志したときから胸の奥に宿っていたにちがいありません。
 けれど、書くことはできませんでした。この主題はあまりにも重く、あまりにも暗く、私の手には余りました。
 まだ読む側にのみ身を置いていた二十代の頃、故郷を遠く離れて、なお追いかけてくる家の重みに押しつぶされそうでした。家を、親を、自分自身さえも切り捨てようとして、私はもがいていました。そして今ももがいています。
 今年、還暦を迎え、今書かなければ死ぬこともできないぞ、と思い至りました。
 そこで、簡単な年表と系図とストーリーのアウトラインを三枚の紙にメモし、パソコンの傍らに置いて書き出したのですが……設計図通りにいくわけがありません。いくつかのエピソードは置いてきぼりにされ、その代わり、思ってもみなかった話が生まれました。
 それでよかったのだ、と断定する自信はありません。北陸街道に面し、塩の道にも近い商家のたたずまいとくらひめさまの棲む文庫倉は、生まれ育った家と奥倉をモデルにしましたが、その商家の三人姉妹にモデルはいません。強いていえば、のんきな長女も行動派の次女も逡巡する末娘も、私の一部分です。
 冬に始まり、夏で終わる物語にしたかったのですが、なかなか夏にならず、苦しみました。ラストで爽やかな夏の風が吹いているか、どうかは、読者諸氏にゆだねるしかありません。
 創作を志した頃は、図書館に行くのもままならない子育て中でした。子どもをおぶって本屋で立ち読みするのが、わずかな息抜きであり、本に触れる時間でした。
 そんなある日、たまたま手に取った本に、女のファンタジー作家は年を取ってからいい作品を書くという一文がありました。生活のしがらみから抜けた老年期に、男性には書けないような凄味のあるファンタジーが書けるのだそうです。エッセーだったのか、作家論だったのか、本の題名も筆者名も、まるで覚えていません。でも、子育てに埋もれていた私は、その主張に希望をもらいました。書き続けていこうと思いました。
 しかしさて、老年になった私にまだ凄味のあるファンタジーは書けていません。第一、平均寿命が八十歳を越えた今、還暦は老年でしょうか? 
 いいえ、これからです。あなたは若い、もっと刻苦勉励せよとの励ましと受け取り、謹んでこの奨励賞を戴きます。
 願わくば、くらひめさまのご加護を得て、この物語が本になり、多くの人に読まれますように。

選後評

斎藤 惇夫
(さいとう あつお) 
選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)。『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)。今年刊行されたタイム・ファンタジー『哲夫の春休み』(岩波書店)は28年ぶりの書き下ろし注目作。


何故ファンタジーを選んだのか

 今回はどれも力作。文章は正確で何よりも細部が丹念に描かれ、一気に物語を読み終え
ることができました。おそらく、三人の方々がそれぞれ、とても大切な場所を持っていて、それを思い出や、記憶にだけ留めておくことができず、言葉にすることによって、その場所の自分にとっての意味を探ろうとしたからなのだろうと思いました。問題は、作品が本当にファンタジーを必要としていたのかどうかということです。
 
 『ユウ』は、主人公ユウが「嗅ぐ」ことに関して特別な能力を持つという設定が、かすかにファンタジーの気配を漂わせてはいるものの、時は中世、物の怪や妖怪が遍く存在していた(今もあまり変わりませんが)時代で、その能力自体格別に不思議なものではなく、リアリズムの作品として読みました。ユウ及び彼女と深い関わりを持つ人々を、生きた存在として読者に見せるためには、まず舞台、中世の自治の町として知られていた堅田を、そこに住む人々の生活、町の組織、自然、更に言えば仏教と土地の「まもりびと」の共存する世界、ついでに「山賊」も「悪僧」も、作者が一つ一つ丹念に検証しながら、自らのペンで生きたものとして甦らせなくてはなりません。主人公たちが、時に舞台から浮いてしまい、今一歩物語に馴染んでいないように感じられるのは、まだ作者が、事実としての歴史から自由になれず、自分の堅田の町を描ききっていないことにあるように思えます。
 
 『くらひめさま』は、家付きの妖精が、塩問屋の三人娘の運命を見守るという、物語としてはファンタジーの形を持ち、おまけに、著者の故郷の糸魚川が舞台ということもあり、雪や暗さや寒さ、家の内部まで細やかに描写され好感が持てるのですが、肝心の三人の娘の運命(結核に冒される長女、キリシタンと深い関わりを持つ二女、捨て子の末娘)、またその運命の受容の仕方があまりにあっさりと描かれていて、なんだか長編の筋書きを読んでいるような気にさせられ、物語を読む歓びを半減させます。ファンタジーの形式を選ぶことによって、それが足枷になり、作者が描きたかった、探りたかった世界を存分に描けなかったのではないかと懸念します。むしろリアリズムに徹したほうが、三人の娘の、細やかで濃密な生涯が描けたのではないかと思えます。

 『夏の朝』は、その点、ファンタジーでなければ味わうことのできない楽しさが横溢している作品です。今を生きる少女が、前の年に亡くなった祖父の、今まさに閉じられようとしている家を訪れ、祖父の丹精込めて育てた蓮の開花の度に、時をこえて、家とその周囲の変貌を、祖父の生涯を、少女の親たちの子ども時代と成長する姿を垣間見るというタイム・ファンタジー。何よりも、一軒の家と、その家をとりまく自然・環境の変貌が、丹念に正確に描かれていて、読者は、戦後の貧しい時代から、高度成長へ、そしてそれが行きついた混沌の今へと、少女とともに時代を遡りながら経験できるほどです。惜しむらくは、祖父が、家や周囲の描写に比べ、ステレオタイプにしか描かれていないこと。そのために、少女が次第に深く祖父に魅かれていく過程そのものが、靄がかかっているように見え、明確には読者にとらえられません。少女が時をこえて祖父の過去へ過去へと辿りながら、祖父を今ここにある存在として感じるようになり、祖父の取り戻しようのない悲しみにも触れることになる、だが、少女は過去に赴くことはできても、時間を変えて、祖父の悲しみを癒すことはできない。その緊張と悲しみ、それがタイム・ファンタジーの醍醐味のはずです。家とその周囲と同じように、作者の、祖父への思いの丈を、具体的に、たっぷりと書きこんでいただきたい。それが作者のこれからの仕事と思います。

藤田 のぼる
(ふじた のぼる) 
選考委員
児童文学評論家/(社)日本児童文学者協会事務局長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)、講演原稿集『児童文学の行方』(てらいんく)などがある。


どの評価軸に重きをおくかが 問われた選考会

 今回は、作品の評価軸が仮にABCの三つあるとすれば、ABが○の作品、ACが○の作品、そしてBCが○の作品というふうに並んだ感じで、選考委員がどの評価軸にもっとも重きを置くかが問われるな、という気がしました。

 『ユウ』は、作品の狙いというか、テーマ性という意味では、もっともくっきりとした輪郭を持っていました。主人公のユウは、「オモウ様」という巫女的な導き役としての成長を期待されていますが、この村が領主を戴かない自治の村であるが故に、そして時代が中世の揺籃期から脱しようとしている時期であるために、その予言や判断は一人ひとりの運勢にとどまらず、村全体の将来を左右する重みを持つことになります。その重さに耐えきれず、村から逃げるユウ。しかし、それはユウの新たな可能性への第一歩でもあります。このユウの成長に重ねられるのが、盲目の庭師清春のありよう。彼は一方で「庭の者」としての使命を帯びさせられており、庭師としての成長が時に自身を裏切る形で機能します。しかしそれ故に、ユウの同伴者として、かけがえのない存在となるのです。
 このようなきっちりとした骨格を持っているにも関わらず、残念なことに作者は二人を作品世界の中で存分に動き回らせることをしません。むしろ、作者の狭い思惑の中に二人を閉じ込めてしまい、その結果として(特にユウの心の変化について)きわめて説明的な語りとなってしまっています。この作品については、ファンタジーというより歴史物語ではないか、という問題も確かにあるわけですが、そのことはしばし措いて、せっかくの魅力的な登場人物とのつきあいを、もっと深めてほしいと思います。

 『夏の朝』は、きわめてよく構築された作品でした。フィリッパ・ピアスの 『トムは真夜中の庭で』を思い出させる手法で、主人公が時間という軸を通して心の旅を繰り返し、亡くなった祖父との新たな出会いを果たします。こういうアイデア自体はまあそれなりにあるかなと思いますが、組み立てられ方の細部が半端ではありません。主人公が時間を遡って訪れる場所の風景や人物たちが手に取るように見えてくるのです。ただ、その組み立てられ方がわかってしまうと、ある意味では予想通りに展開していき、それ自体はいいとしても、その組み立てを越えて読者に迫ってくるなにかが、もう一つ感じられないのです。とはいえ、この作品は、このように書かれなければ成立し得ない作品世界だったろうという確かさがあり、ファンタジー作品としての「格」を備えた手応えを感じました。

 『くらひめさま』は、読んでいてもっともドキドキする作品でした。三人姉妹の末っ子ながら、「捨て子」という境遇ゆえに、常に自らの感情やふるまいにブレーキをかけて生きてきたお喜多。父の死と共に、実はその養父が実父であったという事実を知り、やがてそのことを姉たちが気づいていたという事実をも知らされます。「分をわきまえる」ことを至上としてきたお喜多に対して、それぞれに奔放な姉たち。そして、そうした人間の正邪といった規範からまったく自由な、というよりも、それを無化する深淵を抱えているくらひめさまたち。この構図というのが誠に魅力的で、読者はくらひめさまにも姉たちにも、そしてお喜多にも惹かれる自分を感じることで、あらゆる方向に拡がることのできる(できそうな)作品世界を眼前にします。
 であるがゆえに(かどうか)、僕がひっかかってしまったのは、後半、バテレンとキリシタンの若侍が現れ、次女のお登世が若侍に惹かれていき、自身も「殉教」を前提に逃亡の旅に同道しようという展開でした。僕にはこれがお登世の奔放さの発露とも、まして自己実現とも受け取ることができず、お喜多を一人家に残すご都合主義的なストーリーとしか感じられませんでした。キリシタンやバテレンへの警戒感、違和感、そしてある種の憧憬……、お喜多の視点からそのあたりをきちんと描いていたならば、さらに立体的な作品世界になったと思うだけに、残念! でした。

小寺 啓章
(こでら ひろあき)
選考委員
兵庫県子どもの図書館研究会代表/ノートルダム清心女子大学非常勤講師
兵庫県太子町立図書館 元館長
1946年生まれ・兵庫県太子町在住

●兵庫県西部の市・町の公共図書館に35年勤め、太子町立図書館長として24年勤務。2007年3月退職。著作・執筆に日本経済新聞夕刊「本の国から」(1999.4〜2001.3)、『図書館雑誌』コラム「窓」(2005年1・5・9月号)、「子どもと絵本と図書館と(1-12)」(『こどものとも年中版』1999.4〜2000.3)、「本となかよし@〜B」(『おおきなポケット』2007.4〜6)ともに福音館書店、「資料でみる 石井桃子の世界」(執筆・編集)などがある。 


いかに共感できるか、再読に耐えるか

 ファンタジーという異なった世界に入るために、作家でもあるイギリスの著名な評論家は次のように語る。
 ストーリーは読者に好奇心を要求します。登場人物は読者に人間的感情と価値観を要求します。プロットは読者に知性と記憶力を要求します。では幻想(ファンタジー)は読者に何を要求するでしょう。幻想(ファンタジー)はいわば、追加料金のようなものを読者に要求します。(※1)
 この追加料金を『児童文学論』では「ふつうよりも何かもう一つおまけに支払うことを要求するのだ」(※2)とし、「ファンタジーを理解するのに必要なのは、著者のいおうとしていることに、進んで共感の耳を傾けるという態度だけなのである」(※3)と言う。

 今回も、作品を受け取った直後と最終選考直前の少なくとも二回、作者のことばに耳を傾けた。三作とも、一読、どれも読ませるではないか。好奇心で先へ先へとストーリーについていった。ただ、過去の作品でも痛感したが、構成とストーリーだけでは物足りない。いかに「共感」できるか、再読に耐えるかどうか、それは表現とプロットの出来による。

 『ユウ』は、室町時代の近江の堅田を舞台に、「オモウ様」という家系に生まれた少女の物語。残念ながらストーリーを知ると好奇心は失われる。主人公のユウをはじめ、盲目の庭師清春や山賊、村の衆など登場人物に感情が動かない。蓮如の登場も唐突。「追加料金」を用意していたが、ファンタジー対象の選外となった。プロットには欠けるが、ストーリーの展開には力がある。

 『くらひめさま』は、関ヶ原の合戦のころ、越後の糸魚川の塩問屋を舞台にした少女の物語。短文でテンポよく展開するストーリーは勢いがあり、達者な文章は行間に想像をふくらませる。北陸の風土や時代考証の表現も確かで、プロットもある。ただ、芝居のト書きを読む印象で、登場人物に人間的感情がわかない。出雲神話のころからの存在という表題の「ひめ」たちの住む世界がおざなりで惜しい。家つき妖精が主人公のK・M・ブリッグズの『妖精ディックのたたかい』は大いに共感できるが、この作品は、今はやりの市井の時代小説の域にとどまるのではと感じた。

 『夏の朝』は、中二の莉子が、亡母の実家で、過去を遡り前年亡くなった祖父と出会う物語。過去の時間に入る瞬間が、蓮の開花にあわせて無理なく描かれ、プロットの展開も巧みだった。P・ピアスの『トムは真夜中の庭で』は、トムが館の老夫人の夢の世界に入り、裏庭で彼女の少女時代のハティと会い、ハティは会うつど成長していく。この作品は時間が逆で、祖父は、次第に若くなる。それにつれ、フローリングの台所が土間に戻り、サッシ戸が木枠の戸になるという如く時間を遡るにつれて、現在の田舎家が昔のたたずまいに変わる。時間を扱うファンタジーは論理性が要求されるが、祖父が残した絵や古代蓮の種、床下の収納庫などを用いて、納得できるプロットが続いた。ただ、父の再婚相手の麻美ママの存在や莉子の葛藤、父の莉子へのことばを含め、冒頭と結末に置かれた現実の描写は不十分で、同一の筆かと見紛うほどだった。「時間遡行の旅」「ここは未来と過去の出会う場所」など観念的な表現が散見されるが、それは時を遡ることによる変化の見事さで十分に補われた。蓮の開花のすがすがしい印象と共に、もっとも共感の耳を傾けさせた作品で佳作となった。

 さてプロットとストーリーについて、先の評論家は明快に語る。
 「王様が死に、それから王妃が死んだ」といえばストーリーですが、「王様が死に、そして悲しみのために王妃が死んだ」といえばプロットです。・・・ふたつの出来事のあいだに因果関係が影を落とします。・・・ストーリーなら、「それから?」と聞きます。プロットなら、「なぜ?」と聞きます。これがストーリーとプロットの根本的な違いです。(※4)
今回は佳作と奨励賞がすんなり決まった。
さらにプロットに磨きをかけた作品を期待したい。
※1 『E・M・フォースター著作集8 小説の諸相』
(中野康司訳 みすず書房 1994) p.161
※2・3 リリアン・H・スミス著『児童文学論』(石井桃子・瀬田貞二・
渡辺茂男共訳 岩波書店 1964)  p.278  p.280
※4 『E・M・フォースター著作集8 小説の諸相』 p.129-130  

高楼 方子
(たかどの ほうこ)
選考委員
児童文学作家
1955年生まれ・北海道札幌市在住

●著書に『時計坂の家』(リブリオ出版)、『緑の模様画』(福音館書店)、『十一月の扉』(リブリオ出版/新潮文庫)で2001年産経児童出版文化賞、『いたずらおばあさん』(フレーベル館)と『へんてこもりにいこうよ』(偕成社)で1996年路傍の石幼少年文学賞、『おともださにナリマ小』(フレーベル館)で2006年産経児童出版文化賞・JBBY賞、『わたしたちの帽子』(フレーベル館)で2006年赤い鳥文学賞・小学館児童出版文化賞などがある。


この感触こそが決め手

●『夏の朝』――ところどころで、おや? と首をひねりながらも、展開の面白さと文章の感じ良さに引っ張られたままどんどん読み進み、読み終えたときは、しばしぼうっとしていました。釈然としないまま押し切られたような気がしながらも、いいものに触れたあと思わず溜め息をついてまばたきしてしまう、あの不思議な感じに包まれたのは確かでした。結局、この感触こそが全員一致の評価の決め手になったのだと思います。
 けれども(と水を差すようなことを言うのは厭なのですが仕方ありません)、気になった事柄をきちんとわかりたい思いで精読してみると、年代的な齟齬や不自然な点があちこちに見つかり、「本当にあったこと」として物語を信頼するのが難しくなってしまいました。時空を彷徨う物語の場合、曖昧さこそが真実になる面もあるけれど、前後関係や背景など、事実を正確に記すことは、とくに重要だと思います。
 とはいえ、この作品の美質――蓮が開くたびに過去へ溯行し、確かに在った家や若かった人々を見出だしていくという設定の面白さと情景描写、そこで交わされる、時を隔てての祖父との約束の不思議さなど――は、力作揃いだった今回の三作品の中にあっても、やはり圧倒的に光彩を放っていたと思います。

●『くらひめさま』――二百枚に満たない原稿枚数の中に、これだけの内容がこれだけ見事に生き生きと描かれていることに驚いたのですが、それを可能にしたのは、必要十分な描写、つまり場面場面において、その都度、最も効果的なものに言及しつつストーリーを押し進めていった文章力にほかならないでしょう。山十が倒れたときの緊迫した場面、畳をぶつごとに正気に戻っていくお類、未だ見ぬ両親に想像をめぐらすお喜多……。ぱっと鮮やかに情景を描き、人となりを浮かび上がらせることのできる筆力はすばらしいと思いました。
 ストーリーも動きがある上、登場人物たちの感じが良く、好感のもてる作品でした。とはいえ、斬新さを見出だすとしたら、現実世界で起こるストーリーにではなく、守り神たちがそれを見ているという構図のほうにあるでしょうし、そのおかげで神たちの視点を通して人々を見る楽しみが読者に与えられるのも事実です。そしてむろん、守り神たちあってこその「ファンタジー」ということになるのでしょう。けれど、真剣な現実世界の物語に対し、守り神たちが醸し出すのは、滑稽さを含む少女漫画的な雰囲気で、その結果、作品全体が楽しくかつ重層的になったようでもあるし、あるいはうるさくなったようでもあり、判断の難しいところなのでした。

●『ユウ』――この作品も、文章がきちんとしていて危なげなく、安心して読むことができました。しっかり作り込まれているし、完成度という点では非常に高いと思いました。ただ(これは勝手な感想にすぎないかもしれないのですが)、ここではこの体験をしこれを学ぶ。ここではこれに出会いこれに目覚める。というように、主人公がカリキュラムに沿って着々と進んでいくのを見ているような印象から、なかなか解放されませんでした。むろん創作は、作者が統べる世界なわけだけれど、人物が自律的に動かない限り、今ひとつ魅力的な物語にはならないものです。このあたりは本当にやっかいなことだと私も思います。
 ところで私は、「ファンタジー」というカテゴライズにほとんど興味がないので、「この作品はファンタジーに入る」と判断しても「かまわない」と思ったのですが「かまう」という意見が多くて選外になってしまいました。ほかの賞に応募してはどうでしょう。その場合、十四歳になるまでの過程を、ぜひ掘り下げてほしいと思います。

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)
選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

● 日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。「小津安二郎作品地名・人名事典」作成のため、日本と東アジアを飛びまわる。『横溝正史研究』(戎光祥出版)に「鼎談・観てから読む横溝正史」を連載中。


前作に見られたけれんみが抜け、ごくごく自然に不思議を味わわせられる

 最終選考に進んだ三作。「これこれっ」と特別惹かれる作品はなかったのですが、つぶぞろいでありました。

 本田昌子さんの「夏の朝」。第十四回の奨励賞受賞作「スコールでダンス」の混沌たる神話世界に魅了されていた私にとって、本田さんという書き手が大きく前進したのは嬉しい限りです。奨励賞と佳作の径庭は相当なものですから。
 冒頭二行目。「あれは夏の終わり、おしろい花のあわいにおいがあたりにたちこめ、虫たちがにぎやかに鳴き競う明るい月の夜のことだった」と私たちは物語の世界に誘われます。嗅覚・聴覚・視覚が、そしていずれ皮膚感覚も融合していく五感の横断体験が「スコールでダンス」でも基調でした。今回は前作に見られたけれんみが抜け、ごくごく自然に不思議を味わわせられます。方言のリズムも心地よい。とはいえ、そのけれんに魅力を感じていた私にはちょっともの足りなくもあるのです。蓮のつぼみが開く音に耳を澄ますと異空間へというアイディアはすんなりと腑に落ちました。でも、五日間に及ぶ時間遡行、実際は過去に遡るのではなく異なる時空に紛れ込むのですが、その旅の重なりが私にはやや退屈でした。なにより主人公・莉子の祖父への「気まずさ」がすとんときません。これが最大の瑕疵でしょう。ぜひとも解決をはかって下さい。
 とはいえ、古代蓮の「うその絵」をめぐる騒動は〈物語〉そのものの誕生を思わせます。莉子が「もうすぐ、この物語は終わってしまう」という予感を抱くというメタフィクショナルな自己言及もいいですね。作者に備わった実験を恐れぬ冒険性を買いたい。細かなことですが、小道具としてのトンボの浴衣が効いています。羽あるものとしてトンボはこの世とあの世を行き来する使者。泉鏡花「縷紅新草(るこうしんそう)」(一九三九年)の「あれあれ見たか、あれ見たか」ですね。ちょっと恐い。

 小川英子さんの「くらひめさま」。蔵姫、それとも鞍姫。想像をかき立てるタイトルですね。歴史的背景や当時の生活の細部がきっちりと書き込まれており、文章もいい。でも、軽すぎるところが気になりますね。たとえば黒玉猫(ぬばたまねこ)。キャラクターはとても素敵なんですが、「ミャー」「ひぃー」「にゃおう」はないかな。それと、ほこらひめさまの怒りも納得しがたい。やはり「すねていらっしゃる」以上ではなさそうなので、お美和が見放されてしまうというのはどうも。
 奈雅月ありすさんの「ユウ」。力作ではあります。でも、文章が硬く観念が先行しています。何よりいけないのは、中世を舞台としながら「自治」「差別」といった近代の言葉を多用していること。語り手の語りだけならば目をつぶってもいい。しかし、会話文に使ってしまうのはいただけません。歴史ものは難しい。しっかりと咀嚼した語りが要求されます。清春の造形に無理があります。十四歳で盲目になり、すぐさま天才庭師になったという不自然さ。庭の者としての悩みにもリアリティーがありません。それこそ近代人の悩みでしょう。蓮如も都合よく登場するだけです。ユウが手込めにされかねなくなる時の表現は、児童文学として行き過ぎではないかと思いました。

 私は三作とも奨励賞以上でよいかなと思って臨みました。「ユウ」に関してはファンタジー性が希薄だということで見送られました。やはりファンタジー性を大切にするということが確認されたという意味でよい議論になりました。もちろん、いかにもひねくり出したというような不思議はごめんこうむります。現実がきちんと書き込まれた上で、自然と不思議に出会ってしまうのが条件。リアリズムがファンタジーに接続していくのです。

工藤 左千夫
(くどう さちお)
選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。著書に『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)などがある。 


大賞に匹敵する作品は、再読にたえ、かつ新たな発見をかんじさせるもの

 第16回児童文学ファンタジー大賞の最終選考会は、今までになく和やかな雰囲気で終始した。本賞選考会の歴史において、第3回も同様の雰囲気であったことを記憶している。ただ、異なることは、第3回では『鬼の橋』を大賞にするかどうかだけの議論であり、今回は、どの作品を佳作もしくは奨励賞に推薦するか、という差異はあったのだが。
 率直に述べれば、大賞の壁はやはり厚い。第1回『裏庭』の梨木香歩さん、第3回『鬼の橋』の伊藤遊さん、それから13年間、大賞の声が選考会ではかからない。大賞かどうかの議論すらおこらない。これは主催者にとって、いつも歯がゆいことなのである。毎年のことではあるが、選考会終了後、その結果をもって、本賞の正賞版画「冬の空」の作者、手島圭三郎先生のもとへ訪れる。大賞と佳作の正賞版画では同じ構図であっても大きさが異なるのだ。「今年もだめでしたか」との手島先生の声が、もう13年間も続いている。
 本賞が始動し、最近では次のような問い合わせが多く寄せられて来た。「応募したいのですが、ファンタジーって、どう書けばいいのですか」「創作をしたいのですが、何か参考になる本はないですか」その他、困りますね。このような問い合わせは。もし、パーフェクトなファンタジーの書き方や創作のマニュアルがあればわたしも読んでみたい。確かに創作を教える機関があることは聞き及んでいるのだが、そこでは創作の基本的パターンだけは教えているそうである。今回の選考会に残った方々がそれをやってきたとは思わない。が、「パターンだな」と思わせる作品の多かったことも事実である。そのため、とても読みやすいのである。しかし、再読すればするほど色あせてくる。大賞に匹敵する作品は、再読に耐え、かつ新たな発見を感じさせるもの、それこそ大賞の名に相応しい。
 選考委員の高楼方子さんが「創作のパターンはあったとしても、書いているうちにそれを越えていく」と述べていた。また、ル・グウィンがあるエッセイで述べていたことも思い出す。「若いころは、書いて書いて書きまくった。書き方がわかるまで書いた」。
 創作を目指される方は、ぜひ憶えておいて欲しい。優れた編集者が、パターン化された作品を眺めると「この方は、頭で書いていますね」と必ず述べることを。本賞の前選考委員長、故 河合隼雄先生は「それは浅い意識という表層だけの部分です。ファンタジーは意識を超えた心の深層、その魂の叫びの文学です」。
 具体的には、小寺委員の今回の選評を参考にしていただきたい。小寺さんはE・M・フォースターの『小説の諸相』を引用しつつ、創作におけるストーリー性とプロットの関係を分かりやすく書いておられる。さらに述べれば、ストーリーとプロット、ディテールというこれらのトライアングルが呼応してこそ再読の意欲も沸く。大賞とはそのような作品である。
 今回は三作品が最終選考会に上げられた。各選考委員の評はいつもながら素晴らしい。紙面の関係があるので、評というほどではないが、佳作受賞の本田昌子さんに一言。
前回の作品は、わたしとしては全くの評価外。はたして、これ以降、作家としての才能はどうか、という極めて冷淡な想いでした。今回の作品は、一皮も二皮も剥けた感じを受けたのはわたしだけではないはずです。どのようにしてこれほど変わることができたのか、一度、率直に伺ってみたい。ただ、大賞のレベルは遥か遠くにありますので、三皮も四皮も剥けた作品が出来上がることを期待しています。