ドーンDAWN17号


2009年11月発行

大 賞 該当作品なし
佳 作 「しゅるしゅるぱん」 おおぎやなぎ ちか


 第15回児童文学ファンタジー大賞の公募は2008年11月から2009年3月31日までの期間で行われた。
応募総数236作。
 一次選考において15作、二次選考では6作が通過。三次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。


  「古樹の国」        朝友 麻矢
  「しゅるしゅるぱん」    おおぎやなぎ ちか
  「閻魔大王とうそつき権左」 京  不羈


 最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、小寺啓章、高楼方子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2009年9月6日、小樽にて開催された。
 選考会は、大賞推薦の有無から始まり、結果として大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
 続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り、「しゅるしゅるぱん」(おおぎやなぎ ちか)が本年度の佳作に決定した。

受賞コメント

扇柳 智賀
東京都在住 50歳
秋田大学卒

佳作「しゅるしゅるぱん」
371枚(400字詰換算)
おおぎやなぎ ちか

 現在名作と言われている海外ファンタジーが日本で翻訳出版された1960年代から70年代は、私の幼児期から児童期に重なります。しかしそれらは、私の周辺には存在せず(いや、あったのでしょうが)、私は父や祖父の本棚の江戸川乱歩やコナン・ドイルを読みふけっていました。
 大人と呼ばれる年齢になってその存在を知り、手に取った『ナルニア国ものがたり』や『指輪物語』。しかし、そこに描かれている世界はあまりにも遥かに遠く、私を招き入れてくれるものではありませんでした。私自身が現実の世界で迷い、現実から逃避していたせいでしょう。
 近年、次々と映像化されたそれらの作品を観て、「ルイスやトールキンは、この世界を文字で描いたのか」と、逆方向の認識を持ちました。小学生の私に、ナルニアや指輪物語を送ることができたら、と思うこともあります。乱歩を読んでいた頃、ナルニア国は存在していたのですから。
 このたび一次選考通過のお知らせをいただいてから最終選考まで、時という目に見えないものがゆっくり近づいて来るのを感じました。二ヵ月後が一ヵ月後になり、一週間後になり、明日になる。そして、今では過去のものになっています。小樽では選考会が行われ、自分の書いたものを選考委員の先生達が読んでくださっていました。その一方で、私は日々の生活をいつも通り繰り返し、新しい物語を紡いでいました。この時の流れと空間は、確かなようで確かでなく、ブレや歪みがあるようで、そこからまた新たな物語が生まれるように思えました。
 児童文学よりも十年長く俳句を学んでいますが、日本語の多種多様さ、深さ、日本文化のおもしろさを知り、人間の生きる知恵に敬服するばかりです。俳句結社「童子」主宰の辻桃子氏には、言葉と出会う楽しさと徹底写生を、全国児童文学同人誌連合会「季節風」代表の後藤竜二氏には、人の気高さや誇りを描くという文学の基礎を教わり続けています。力足らずにもどかしさを覚え、恥じ入る面も多いものの、「子供にあきらめることを教えるな」という後藤代表の言葉が、一筋の光として行く手を照らしてくれています。
 現実を見つめ、自然を感じ、暮らしや人との繋がりを大事にし、そこからファンタジーの世界が垣間見えることがあったら、迷わず飛び込み、その世界を描きたいと思います。
 最後になりましたが、長い期間に渡り丁寧に審査をして下さった選考委員の先生と関係者の皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました

作品が熟成するのを待つのも 書き手の仕事です

斎藤 惇夫
(さいとう あつお)
 
選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)。『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)。


古樹の国
 北欧神話の根幹、ユグドラシルに魅せられ、自らの来し方行方を古樹の中の世界に探ろうとした力作の匂いはするのですが、いかんせん著者に見えてきた世界が、読者と共有できるところまでは描かれていないこと、それぞれのエピソードの有機的な繋がり(プロット)が曖昧なこと、要するに、著者がまだ、自ら表現したかった世界に正対していない、言葉でその世界ににじり寄る勇気と覚悟ができていない、そう感じました。

閻魔大王とうそつき権左
 昔話の『地獄巡り』をネタに、閻魔様と十二人の鬼を相手に、嘘で世間をだましつづけてきた男が、自らの罪を悔いるどころか、今度は鬼の数だけ嘘=物語を語って、何とか極楽往生しようと企む話。『千夜一夜』をまつまでもなく、物語の中で物語を語るという手法は古く、子どもの本の中にも幾編かありますが、語られる物語のせいぜい二三編が光るくらいで、ほとんどが失敗作です。昔話や神話の断片をうまく用いなくては、個人の創作としては、そもそもが無理な形なのかもしれません。おまけにこの権左の場合は、相手が人の死後の行方を司る、人の心と行いを見極めるプロの閻魔大王と鬼たちなのです。彼らとの勝負は最初からついている、物語としての敗北も見え透いています。案の定、十二の話は閻魔様と鬼たちをだますには平板にすぎるし、それぞれの話が呼応しながら次第に権左の過去、内面を明らかにしていく濃密さもありません。彼にこの世で騙されたという人たちの顛末も描かれていません。失敗作としか言いようはありません。ところが、そのノンシャランと語られた平板な十二の話を読むうちに、嘘をつくことと物語を書くことは所詮同じじゃないか、騙される側にも快感がありもともと騙されたがっている、相手を騙すってことは愛するってことと同じ・・・なんてことが切れ切れに感じられ、おまけにこの一話一話のレベルで出版されている本など幾らでもあるではないか、などとまで思わせられ、いつの間にか権左の応援団になり、くすくす笑いながら読みました。せめて最後、権左が語れなくなったところで、一挙に物語が核心に向かい、嘘をつくこと、物語ること、生きること、愛すること、それが結晶のように語られたらと願い、その夢も叶えられはしなかったにしても。どうぞ、作者の嘘をもっと楽しませて下さい。本気になってこの物語を仕上げて下さい。子どもたちは、物語を楽しむことにおいては、閻魔大王よりも、いわんや鬼たちよりも強敵で、著者の舌を抜きかねないのですから。

しゅるしゅるぱん
 謎解きのように面白く濃密に物語りは語られ、登場人物たちの背負っている背景も手際よく描かれた力作です。ただ、肝心の妙と面妖の激しく、一途で、異様な恋が見えてきません。しゅるしゅるぱんという、見える者にしか見えない子どもを産みだすほどの激情が感じられないのです。全てはそこから始まっているはずなのに! この作品の核は、しゅるしゅるぱんの誕生の秘密を探ることにあるのですから、その一点が曖昧、安易だと、単なるゴースト・ストーリーに終わってしまいかねません。物語を、愛の不思議さ、美しさ、脆さ、強さを、じっくり感じさせるところまで熟成させていってほしいと思いました。

「自分の言葉」を大事にしつつ 作品世界を深めてほしい 

藤田 のぼる
(ふじた のぼる) 

選考委員
児童文学評論家/(社)日本児童文学者協会事務局長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)などがある。


 今回最終選考に残された三作のうち、やはり「しゅるしゅるぱん」に心惹かれました。というか、あとの二作「閻魔大王とうそつき権左」と「古樹の国」には、いささかついていけないものがありました。
 「しゅるしゅるぱん」は、ファンタジーの王道というか、オーソドックスな骨格の作品です。田舎に住み始めた少年が不思議な存在と出会い、彼に導かれるように自分の「家系」の秘密、家族のあり方に、目を開かされていきます。そして、最後はその不思議な存在との別れが待っているという、成長小説としての枠組みも持っています。この作品の魅力の第一は、なんといってもその不思議キャラクター・しゅるしゅるぱんの造形でしょう。「しゅるしゅるぱん」というのは、主人公解人が越してきた「朱瑠町」に祀られている神様の名前なのですが、解人の家ではもう少し身近な存在としてあるらしいというあたりから物語が始まっていきます。思春期を迎えようとしている少年と、時空を越えた存在であるしゅるしゅるぱんとが感応していくプロセスには、リアリティーがありました。(「しゅるしゅるぱん」「解人」という名づけも含めて。)
 そして、魅力の第二は、この作品が(考えてみると)日本の児童文学ではあまり取り上げられない「家系」という題材を正面から描いているところにあると思います。ヨーロッパの作品で家系が描かれる時は、大体貴族とか選ばれた家系であることが多いのですが、この物語の場合は、むしろ命のつながりとしての家系を問題にしています。この作品を読みながら、このテーマは日本の子ども読者にとっても結構あり≠ネのではという思いを強くしました。
 ただ、そうしたせっかくのオリジナリティーを、作品の方法や文章が支えきれていません。これは主人公を含む四代にわたる物語なのですが、その時代ごとの匂いのようなものがそれぞれの章から立ち上がってこないことが、まずは致命的だと思いました。それは文章の問題であると共に、祖母や曾祖母たちの造形の浅さという問題であるように思います。例えば、村田喜代子あたりの、世代ごとの人間像の造形なども学びつつ、さらに作品世界を深めてほしいと思います。また、近年のミステリーなどによくみられるように、章ごとの語りのパターンを変化させていく方法についても、さらに研究してほしいと思いました。
 「閻魔大王とうそつき権左」は、地獄の入り口で命をかけて十二の話をしなければならなくなるという、アラビアンナイトばりの設定はアイデア賞ものといえますが、そこ止まりという印象でした。こういう作品は、読み終えたときに、そうした設定を超えたなにかが読者の心に残らなければ、アイデア倒れということになります。一つひとつの話に磨きをかけることもさることながら、例えば語られた物語に対して鬼たちが思いもよらぬ反応を示し、権左が自分自身のついてきた「嘘」の意味を問い直されていくといった(そういう部分がまったくないわけではありませんが)、読者をいい意味で緊張させてくれる展開がほしかったと思います。
 「古樹の国」は、ひとことでいえば、自分の言葉で語ってない、という印象でした。この国の危機の源泉である「世界が縮んでいる」という設定も、うまく呑み込めませんでした。スケールの大きな物語とはいえるかもしれませんが、作者の「これを語りたい」という作品の核のようなものに触れた実感を持つことができず、残念でした。

物語としての真実らしさを

小寺 啓章
(こでら ひろあき)

選考委員
兵庫県子どもの図書館研究会代表/兵庫県太子町立図書館 前館長
1946年生まれ・兵庫県太子町在住

●兵庫県西部の市・町の公共図書館に35年勤め、太子町立図書館長として24年勤務。2007年3月退職。著作・執筆に日本経済新聞夕刊「本の国から」(1999.4〜2001.3)、『図書館雑誌』コラム「窓」(2005年1・5・9月号)、「子どもと絵本と図書館と(1-12)」(『こどものとも年中版』1999.4〜2000.3)、「本となかよし1〜3」(『おおきなポケット』2007.4〜6)ともに福音館書店、「資料でみる 石井桃子の世界」(執筆・編集)などがある。


 本年(2009)、『瀬田貞二子どもの本評論集・児童文学論』が刊行された。成長する子どもたちにこそ質の高い物語が与えられなければならないと、真に子どもの側に立った評論の集大成である。中でも2章「ファンタジー」は、瀬田さんが四十代での執筆で、勢いがあって読みごたえがある。
 「新鮮な想像力と驚異の念とがなければ空想物語の世界も始まらないし、その世界をひらくこともできない。それは大人には特別な能力であるが、子どもにはなんら特別な能力ではない」(※1)。瀬田さんは「ゆたかな可能性をたたえた子どもたちに、それ(ファンタジー)は、ゆたかなものへの眼をひらかせる重大な契機なのである」として、読者の一生にわたる識別力は、そのときに養われると述べている(「空想物語が必要なこと」)。
 「新鮮な想像力と驚異の念」では子どもに全く及ばない選考委員だが、期待して三作の到着を待った。以下、読んだ順に記す。
 『古樹の国』。主人公の英知(えいち)は十四歳。父の再婚相手、清香の父の家で夏休みを過ごす。庭の古木ビャクシンを通して「古樹の国」の世界に入り、その国の「導き人」になるという物語。形容詞や副詞の修飾語など誇張した表現と、躊躇、動転、静寂、絶望、恐怖、全貌など漢語の頻出に、読み手の想像力が動かない。動詞を主にした力強い表現の次回作を期待したい。
 『閻魔大王とうそつき権左』。タイトルは興味をひく。閻魔帳を書き換える中国の昔話「チャン・サンと閻魔さま」や落語「地獄八景亡者戯」など、アジア人には馴染みの説話を題材に、十二支にちなむ話を話中話として織りこむ。主人公の権左の口巧者ぶりやしたたかさは出ているが、「さすがは詐欺師」と作者の言うほどには思われない。ステレオ・タイプの描写と繰返しは、新鮮さに欠ける。人間だれしも両面あるが、怠惰でネガティヴな面のみを引出される思いがした。
 『しゅるしゅるぱん』。主人公は六年生の前原解人(かいと)。東京から岩手県に転居。転校初日の教室で赤毛のしゅるしゅるぱんに会う。この男の子は他の人には見えない。章ごとに、現実の解人と溺死した父の兄キラや祖母、曾祖母など四世代の出来事と証言を交互に描いて、この「しゅるしゅるぱん」出現の謎に迫る。非現実の世界を語るからこそ現実を丁寧に描いてほしい。たとえば、競技大会の男子四人のリレー。解人の友達になった宗太郎と高橋という名は出るがアンカーが出ない。チームワークやバトン順に頭を悩ますのにである。また、読後のあと味の悪さは何に由来するのだろうか気になる。しかし、三作の中では最も文章は安定し、安心して読むことができた。
 『古樹の国』と『しゅるしゅるぱん』は、ともに女性の筆者が、田舎を舞台に、主人公を男の子にして、ビャクシンと桜の古木を各々登場させた。男の子と古木。私たち人間は田舎の自然に呼応するところがあり、特に子どもたちは無理なく古木の語る世界に入っていけるのではとファンタジーの展開に期待した。しかし、古木の存在は舞台の書割の如くもの足りず、男の子である必然性もなかった。男の子を選ぶならもっと観察してから描いてほしい。
 三作とも、作者による「あらすじ」を読むと、構成は考えられていたが、筋の展開が理屈で納得させられる物語では、読者としては面白くない。「情報リテラシー」の分野ではなく、文学のことばがほしい。「ファンタジーがどうしてももっていなければならないものは、その物語としての真実らしさです」(※2)。細部を丁寧に描写することによって、ファンタジーの世界に真実味がでる。今回の三作は大賞には届かず、相対的に『しゅるしゅるぱん』が残った。
 ファンタジーの読者対象は確かに大人も含まれるが、子どもから大人までという対象がかえって物語の力を弱めていると思われてならない。初めから大人の読者を意識せず、「ゆたかな可能性をたたえた子どもたち」に向けて、彼らの想像力の翼を羽ばたかせる作品を期待したい。
 ※1 『瀬田貞二子どもの本評論集・児童文学論(上・下)』上巻p.103 (福音館書店 2009.5)
 ※2 『子どもと文学』p.210 (石井桃子ほか著 福音館書店 1967.5)

物語の土台や、本当にだいじなことをきちんと書いて

高楼 方子
(たかどの ほうこ)
選考委員
児童文学作家
1955年生まれ・北海道札幌市在住

●著書に『時計坂の家』(リブリオ出版)、『緑の模様画』(福音館書店)、『十一月の扉』(リブリオ出版/新潮文庫)で2001年産経児童出版文化賞、『いたずらおばあさん』(フレーベル館)と『へんてこもりにいこうよ』(偕成社)で1996年路傍の石幼少年文学賞、『おともださにナリマ小』(フレーベル館)で2006年産経児童出版文化賞・JBBY賞、『わたしたちの帽子』(フレーベル館)で2006年赤い鳥文学賞・小学館児童出版文化賞などがある。


●『しゅるしゅるぱん』を一番強く推したのは私です。でも実は困ってしまう作品でした。たとえれば、土台がないのにみごとな建造物が建っていることへの困惑、といった感じでしょうか。
 方言を自然に織り込んだ丁寧な文章、混乱をじょうずに回避しながら辿る系図や過去と現在の行きかい、登場人物一人一人に向き合う作者の態度の誠実さ、そして何より、設定の独創性と美しさ――別れた恋人への思慕から生まれた想像上の少年「しゅるしゅるぱん」が実体を得て生きつづけ、ひ孫の代の主人公との出会いを通して、ようやく母なる人(主人公の曾祖母)との邂逅を果たし、安らぎの中に消えて行くという――に、本当に感心しました。もうどんどん引き込まれ、「しゅるしゅるぱん」の悲しみが我が事のように胸に迫り、最後の方は涙しながら読み終えて、「よかったあー」と息をついた次第です。
 が、どうしても釈然としなかったのが、「しゅるしゅるぱん」を想像で生みだした男のありようです。この人のことは、もっと掘り下げなければならないでしょう。架空の人間が命を帯びるというのはよほどのこと。恋人への尋常ならざる思慕が背景にあってこそ、かろうじて成立もすれば納得もいくというもの。ところが思いの強さがまるで伝わらないのです。こうなると、物語全体を統べる要がなくなり、物語そのものが成り立たなくなる、すると白がパアーッと黒に裏返るオセロゲームさながらに、数え上げたあらゆる美点も一挙に虚しくなってしまう――。しかしだからといって否定してしまうには、あまりにももったいない作品で、つまり、困ってしまったというわけなのでした。
 是非ともその部分をきちんと書いていただき、本として読みたいというのが、選者としてのというよりも、読者としての私の希望です。そこに筆を伸ばした場合、恋人へのその後の思いや妻との関係にも言及することになるでしょうから、児童文学の域を、おのずと押し広げることになるでしょう。これは、やりがいのあることだと思います。

●『古樹の国』は、幾層にも重なった複雑な構成と、謎めいた言葉や詩が、かえって仇になった作品だと思います。こちらは、書き手の思考にちゃんとついていきたい、わかりたいという一心で、丹念にがんばって読むわけですが、ひょっとするとこれは勿体ぶっているだけで、真面目に辿っていくほどの価値はないのではないか、という疑惑が一旦生じると、ついおざなりな目で読むことになり、ひいては、本来着目すべきである箇所までをも、ないがしろにしかねないからです。
 好きな作品の影響下からなかなか抜け出せないというのは、ある程度仕方の
ないことだと思いますが、よく整理し、思わせぶりなことはやめて、本当にだいじなことだけを綴っていったら、この作品のテーマやオリジナルな点も、もっとくっきり浮かびあがったはずです。とはいえ、二十二歳という若さで、これだけ長い作品を書き上げたというのは、すごいことだと思います。

●『閻魔大王とうそつき権左』については、額縁はよかったけれど中の絵が……という感じが否めませんでした。選考会で中澤さんは、一つ一つの話が面白いかどうかは問題ではなく、それを聞いて面白がっている鬼たちの姿を見て面白がる、というのが、この作品の正しい鑑賞態度なのだ、とおっしゃったけれども、私はやっぱり鬼の一人になって権左の話を読むことしかできず、すると、自分には甘く人には厳しい私としては、「合格!」と言う代わりに「失格!」と言いたくなる話のほうが多いのでした。
 人を唸らせるほどの面白い短編を十二作、たて続けに披露するなんて、実際、至難の業です。でもそれに果敢に挑まれたというところは、エライ!と思いました。

うそつきというペルソナを必死に受肉させようともがく権左

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)

選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書
房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。「小津安二郎作品地名・人名事典」作成のため、日本と東アジアを飛びまわる。『横溝正史研究』(戎光祥出版)に「鼎談・観てから読む横溝正史」を連載中。

                             
 おおぎやなぎちかさんの「しゅるしゅるぱん」。まずタイトルに惹かれました。太宰治の「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」(『斜陽』)というあの酒中狂熱をすぐさま思い出しますね。秋田出身のおおぎやなぎさんは、語感的に津軽の太宰に通じるものがあるのでしょうか。方言の多用も嫌みがなく、成功しています。読み進める前に、私は勝手にナンセンスな物語を期待し胸躍らせていたのですが、それは見事に裏切られました。しゅるしゅるぱんはある種の妖怪でその悲しい物語なのでした。
 キラを死なせたことなど、しゅるしゅるぱんの悲しみはもちろんよく了解できます。しかし、私はどうしてもこの物語にのめり込めませんでした。しゅるしゅるぱん誕生の経緯に納得しかねたからです。三枝面妖がものの怪に惹かれていくその知的発動とでもいうべきありようは分かるのですが、捨てた恋人・妙との間の子としてしゅるしゅるぱんを「作り出」そうという行為がよく理解できません。ここがうまく描かれなければ、物語全体が絵空事になってしまうのではないでしょうか。妙の欲望が強烈であるというならば、まだしもという気もするのですが。
 朝友麻矢さんの「古樹の国」。北欧神話ユグドラシルに導かれて古樹の国に入るまでは期待していました。でもそこからがいただけません。冒険部分にわくわくしないのです。環境問題にしろ生物多様性にしろ、喫緊の問題に触れながらも観念が放り出されているだけ。生活や現実の細部を重ねて読ませるようにしなければなりません。とはいえ、これだけの長丁場を大きな破綻なく構築した力業は素晴らしく、今後を楽しみにしています。
 京不羈さんの「閻魔大王とうそつき権左」。いやあ面白かった。児童文学ファンタジー大賞の歴史に一歩を刻むナンセンスファンタジー。三次選考会で岡田吉史委員は落語ファンタジーと評していました。軽妙な語り口であれよあれよ。その表層的な軽みに似合わず意外と深い読みものなのではないかというのが私の理解。これは、物語の立ち上がり方そのものの物語なのです。物語内の物語作者たる権左に語尾の工夫を語らせたり、聞き手の鬼たちに物語のおしまい変更を要求させたりとメタフィクショナルな方法を駆使します。物語は作者の独占ぶつなどではけしてなく、読者との共同作業で立ち上がってくるありようを示しています。だから、物語は当然線状に結末に向かうのではなく、どんどん脱線してしまいます。まるで私たちの生のありようと同様に。権左によって語られる十二支物語も先行する物語をなぞった陳腐な物語と化しているかのよう。だがそれも、世の中の物語に十全なオリジナルなどというものはなく、多かれ少なかれ先行作品のなぞりによって成り立っているということを示しているのだとすれば、読者は鬼たちと一緒に拍手していていいことになります。
 物語巧者を自認する権左の頭が空っぽになり、行き詰まってしまうさまがいいですね。最後の語りを前に不安になり、震え出す権左。心配した青鬼に、権左は嬉しいからだと応えます。ここで、この作品の語り手(権左ではない)は、「権左は、無理に強がって、そんな生まれて初めてのうそをついたのでした。権左は、最後まで鬼たちには、うそつき権左と思っていてほしいのです」といいます。感動的でしょう。権左はうそをついてきたわけではなく、うそつきというペルソナを必死に受肉させようと生きてきたにすぎないのでした。
 そんな作者のあっけらかんとした明るい戦略に乗って読もうという私の試みは、そも最終候補作品として論外という評の前に玉砕してしまったのであろうか。はてはて。権左よ、極楽でもうそに生きよとエールを送りたい。

賞のコンセプトは一貫して「子どもと大人の狭間で悩む人間群像」

工藤 左千夫
(くどう さちお)
選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。 


 今回は第十五回という記念すべき年次にあたる。一口に十五回といっても、主催者としては「よく、十五回も続いたなあ」という率直な感じと、今までの経緯が走馬灯のように揺れ動く。これは単純に十五年ということではない。賞創設の準備を含めると、十八年の歳月なのだから。
 賞創設にあたって、河合隼雄先生のもとへ、どれほど足を運んだことだろう。河合先生の紹介で、各選考委員にもお百度参り。そして福音館書店の松居直会長(当時)にお会いしたこと、それから一週間後に、当時の福音館書店童話セクション編集長の斎藤惇夫(現 児童文学ファンタジー大賞選考委員長)さんから連絡をいただいたことなど、思い出せばきりがない。また、その授賞式を文化セミナーの冒頭に行なうために、再び、河合先生と文化セミナーの企画を練ったことや賞運営の資金繰りなど、この賞を中核として、絵本児童文学研究センターは、複合的、多層的に拡充してきたことを鑑みると、一つの文化運動のあり方を提示してきたようにも思える。そのため、本賞の選考・運営については、例年通りといっても、おろそかにしてきたことは一度もない。
 右記の経緯を踏まえつつ「子どもと大人の狭間で悩む人間群像」という本賞のコンセプトは、いまだ変化することはない。また今後も変化することなどありえない。
 この記念すべき年次に、応募総数は今までで最高。期待は高まったものの、当初から、大賞は無理、との思いは残念至極。第三回の大賞『鬼の橋』以降、大賞の壁は本当に厚い。
 各選考委員が自らの想いを選評として見事に述べている。重複を避けようとは思うが、それも無理なこと。多少ともわたしの感想を残りの次数で述べてみたい。
 「古樹の国」
 この作品は苦痛である。とにかく苦痛であったことが読後感として残る。この苦痛を文章にするとさらに苦痛なので、他の委員にその評をおまかせしたい。
「閻魔大王とうそつき権左」
 少数の選考委員の評価はあったものの、ほとんどの委員はノーの意思表示。「うそ」というパラドックスな世界を構築しているようで、結局は十二の連続した「ウソ物語」の整合性と最終の逆転劇は破綻していた。意図的破綻であればそれもひとつの世界であろうが、これは作家の力量不足による破綻。そのため、継続した面白さは得られない。
「しゅるしゅるぱん」
 この作家は手練だなあ、と作品の冒頭から感じた。特に、ディテールの上手さは、今回、群を抜いていた。しかし、これを出版するとなると編集者の苦労は大きい。選考会でも話題になったのだが、曾祖母の妙とその恋人、太一との情的なかかわりをどうするか? これには意見がわれたのである。作品の土台にはさらなる展開が必要と思われるが、しかし、それへのこだわりは児童文学のジャンルを逸脱するようにも思われる。また、先に述べた関係をそのままにして行く展開は、日本人的「もののあはれ」の深さをさらに進捗させなければならない。とにかく今後は作家と編集者の真剣勝負に道を譲ろう。その結果(作品)を待ち望む。