ドーンDAWN14号


2006年11月20日発行
第12回児童文学ファンタジー大賞選後評

[選考経過]
大 賞 該当作品なし
佳 作 「宿神」(しゅくのかみ)田中 彩子

 第12回児童文学ファンタジー大賞の公募は2005年11月から2006年3月31日までの期間で行われた。応募総数163作。
 一次選考において18作、2次選考では6作が通過、3次選考会においては次の4作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

「宿神」 田中 彩子 
「河童とバイオリン」 谷 登志雄 
「夜が明ける前に」 小林 美緒 
「ヴォカリーズ」 辻野 陽子

 最終選考会は河合隼雄選考委員長が病欠のため、斎藤惇夫(副委員長)が委員長代行で、工藤直子、脇明子(事前のコメント、当日の電話参加)、藤田のぼる、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2006年9月10日、小樽にて開催された。
 選考会は、大賞推薦の作品の有無から始まり、結果として大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
 続いて、佳作の選考審議に入り、田中彩子「宿神」が本年度の佳作に決定した。

田中 彩子
東京都在住27歳
早稲田大学第一文学部卒

「宿神」 204枚(400字原稿用紙換算)
佳作「宿神」(しゅくのかみ)田中 彩子

▼受賞コメント
 言葉が思うように使えない、それを強く思いました。目の前に見えているものをかたどればいいだけなのに、思うようにならない、そのもどかしさ。書けども書けどもただなにかをするりと迂回するばかりで、結局はどこか芯のずれたものにしかならないのです。
 なにか、というのはおそらく壁のようなもので、本当はそこを突き崩して先に進まなければならないのはわかっている。刃先が滑って立たないのは道具が使いこなせていないからです。使うのは使い勝手のいい規格品の鑿ではなく、うち残しや焼き残しのある鑿でなければならない。使い続けるうちに手になじんで、癖も何もしみ込んだこの鑿でいつかあの壁を崩してやろうと、いつもそればかり考えている気がします。今回は鑿の持ちかたを変えてみたり、彫る角度を変えてみたりと、そんなふうに。ただ今はまだ、使いにくさのほうが先にたちますが。
 書くという作業は鑿で彫る作業に似ている気がします。彫り込んで彫り込んで、彫り込みながら自分と向き合う。自分の中にあるものを彫りだすことで石だの木だの語りだのに化体させる。書くことによって考えているのだと思います。たまに、正道を行けばいいのに、ちょっと実験したいと思うとすぐ手をだして、別な壁にどんとぶつかる――そんなことを繰り返しながら、試行錯誤して鑿と自分を鍛えていく。
 不器用ではあるけれどそんなやり方でもいいのだと、今回佳作をいただいて、少しほっとしました。
 選考委員の先生方や関係者のみなさま、本当にありがとうございます。手間のかかる生徒のようです。いただいた選評を胸に、懲りずに鑿をとろうと思います。いつか納得のいくようなものを彫ることを目指して。
 いつだったか、家の前の雨上がりの道を、姿はみなかったけれどおそらく小学校5年生くらいの少年が、「もえるぜ!」と叫びながら自転車で駆け抜けていったことがあります。(いい。なんだか、すごくいい。)ひとしきりそうして可笑しがってから(彼には悪いのですが)、同じような感覚が、自分の中にもたしかにあることを思いだしました。だからこそくすぐったい。もうあんなふうに叫んだりはしないけれど、体の奥底からふつふつとわきあがってくる、なにか。どんなに力量不足で途方にくれても、あのもえるぜ少年を思い出すたびに、やってやろうじゃないか、と立ち上がる気分になる。
 一進一退に近いけれど、この感覚がある限り前には進める。そう思います。

斎藤 惇夫
選考委員長代行
児童文学家/絵本・児童文学研究センター顧問

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)、『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)。埼玉県さいたま市在住。

何故ファンタジーを選んだのか
 『河童とバイオリン』『ヴォカリーズ』『夜が明ける前に』の3作品については、作者たちが何故ファンタジーという表現形式を選んだのか最後まで分からなかった。形式だけを安易に選んだために、せっかくの物語が深まることなく、いずれも破綻してしまっているためである。
 『河童とバイオリン』は、父と子の対立と和解という古くからの主題に挑み、うまくいけば、崩壊する現代の親子、夫婦、家族の姿を映し出し、新しい家族像を照射できたかもしれないのに、家庭を省みずに仕事をつづけていた父親の自殺を機に、あまりに安易に息子を父親の少年の時間に入り込ませ、父親を理解させるという愚挙を犯してしまった。まだ、父と子、夫婦、母と子の日常生活における葛藤をほとんど描いていないのにである。問題は、父親の少年時代にあるのではなく、その後の父親の生き方、それと主人公の対立がこの物語の主題のはずであった。『ヴォカリーズ』は、一人の少女が、自分の運命を知ろうと、怯えながらも自らのルーツ探しを始める姿には好感を持てるのであるが、肝心の彼女の出自の秘密、また故郷の村の描き方が甘い。ダムの底に沈んでしまった故郷の村人の中に、何故見る力に秀でた者たちがいたのか。いや、そもそも彼らに普通人と異なる何を見る力があったのか。離散した彼らが、今何を見ているのか。やたらに「渡る者」「とどまる者」「繋ぐ者」などという具体性のない言葉を使ったり、「見る」という言葉を力んでゴシック体にしたりしてはいるものの、その肝心のところが全く不明。『夜が明ける前に』は、もしも著者が、夢屋に夢を再生する機械を作らせたりしなかったら、主人公の図書館員の女性の過去の姿を、本人のみならず他の人にも見せてしまったりしなかったら、この物語は失われた記憶を求めての、それなりに面白い作品になったかもしれないのに、脳科学と深層心理をあまりに無邪気に軽率に扱い作品を壊してしまった。もしも3作とも、思いつきの気まぐれな空想を物語に導入するのではなく、あくまで徹底したリアリズムで、父と子の関係を描きだし、少女が自分の出生の秘密に迫り、図書館員が自らの足で途切れた記憶に向かったならば、河童も、不思議な村と人々も、自らの過去の姿もファンタジーとして目の前に現れてきたのではなかったか。このままでは、作家が挑まなくてはならない世界を回避するためにファンタジーを用いている、そんな気がしてならなかった。
 さて、『宿神』。ものを造る、ということが何かということに誠実に挑んだ小気味のいい作品。また、石仏を彫るという設定は、人間が神を彫ることの意味をも問い、緊張感の漂う作品になった。何よりも、きりりと絞った弓がひょうと放たれたように、一度だけ、それもほんの束の間、宿神を見せたのもいい。それもその神を心に抱いていた申吉ではなく寛次郎に見せるという設定も秀逸。ファンタジーに触れる歓びを感じさせてくれる。また、この物語を、2人の異なる資質を持った2人の石工によって交互に語らせるという手法も、つまらない心理学的な物語に堕しやすいところを、具体的な語りで留め、爽やかな物語にした。但し、この方法が物語の広がりや深みを留めてしまったのも事実。寛次郎に比べ、申吉は自らを語りたがるような、あるいは語れるような職人ではない。その面白さがこの物語の中枢なのである。申吉に語らせれば語らせるだけ、申吉像は曖昧になり、捉えがたくなる。その矛盾をどう解決するのか。奨励賞の前2作に比べ、物語の構成、ストーリー、プロット、人物の造形に明らかな進歩が見られるが、それが課題として残った。
工藤 直子
選考委員
詩人/絵本・児童文学研究センター顧問

●詩・童話を中心にエッセイ・翻訳の分野でも活躍中。著書『てつがくのライオン』『こどものころにみた空は』(ともに理論社)、『のはらうた�〜�』(童話屋)、『リュックのりゅう坊1ともだちいっぱい』(文溪堂)、近著に『子どもがつくるのはらうた�』(童話屋)『よいしょ』(小学館)。静岡県伊東市在住。

「やむにやまれぬもの」に出会うカギ
 私はよく、こんなふうに思います。――人って、「やむにやまれぬもの」とでも言いたくなるようなナニかを自分の中に抱いているんじゃなかろうか――と。
 そして、ふだんはあまり気づかないが、ときどきそれが、(引っぱり出してくれい!)と内側からドアをドンドンと叩く――
そんな感じです。
 私の場合、たとえば台所で洗い物などをしているときなどに、不意に日常の薄皮が破れたようになり、しきりに(ワタシって、ナニ? ココはどこ? いったいワタシ、どうなってるの?)と、とめどなく思いはじめたりする……そんなとき「やむにやまれぬもの」の存在に気づきます。そして、それは非常に大切なナニかだと感じ、その正体を知りたくなるのです。
 ファンタジーというのは、この、正体不明のナニかを引っぱり出して、触らせてくれるカギを与えてくれるものではないかと思っています。そのカギを見つけたくて、ファンタジーを読みたい! そんな気持で、今回も、4作品を読みました。
 辻野陽子さんの「ヴォカリーズ」。「見えない世界」を見るチカラをもつ一族の話。主人公唯子と、いとこの泉を中心に物語が進みますが、泉の存在に、不思議な共感を感じ、彼女からカギをもらえるのではないかと思いました。
 谷登志雄さんの「河童とバイオリン」。息子の協と、協の父の少年時代の、時空を超えた邂逅の物語。「少年時代の父親」の描写に魅力を感じ、作中の彼からカギをもらいたいものだと思いました。
 小林美緒さんの「夜が明ける前に」。主人公サクが出会ってしまう、少女時代の「眠りつづける自分」。友人チドリの、今は亡き兄の記憶が、切れ切れにサクの心をとらえますが、その兄の描写の中から、カギを探したくなりました。
 田中彩子さんの「宿神」。江戸末期の旅の石工申吉と同僚寛次郎という2人の、少年時代からの出会いが、昔語りの中で展開する。その申吉に憑いた「宿神」の怪異な気配から、私の欲しいカギがもらえるのではないかと思いました。
 以上、今回の作品はそれぞれ、読者である私に「カギ」を与えようとしてくれました。荒唐無稽なだけの、あるいはファンタジーというスタイルに無理矢理押し込めようとしただけの作品でなかったことが嬉しかったです。なかで、田中さんの「宿
神」が、しっかり人物や背景を描き上げており「佳作」に選ばれました。これからの作者の成長が楽しみです。
 4人の作者がこれからも、読者の中の「やむにやまれぬもの」を引き出す作品を書いて下さいますように。
脇 明子
選考委員
評論家/翻訳家

●ノートルダム清心女子大学教授。大学で児童文学の講座を担当。著書『ファンタジーの秘密』(沖積舎)、『読む力は生きる力』『魔法ファンタジーの世界』(ともに岩波書店)、『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)訳書『不思議の国のアリス』(キャロル著)、『ムルガーのはるかな旅』(デ・ラ・メア著)、『ぐんぐんぐん』(マレット著)、『クリスマス・キャロル』(ディケンズ著)、『雪女 夏の日の夢』(ハーン著)、『かるいお姫さま』(マクドナルド著)すべて岩波書店、『天のろくろ』(ル=グウィン著、ブッキング)。岡山県岡山市在住。

共感できる思春期の心の世界
 ファンタジーというのは、リアリズムに比べてよしあしの判定基準を設けるのがむずかしい分野だが、私がいま判断の手がかりとしているのは、まず第一に、作品のなかの「ファンタジー的要素」が、物語の単なる飾りでなく、主人公がかかえている問題に直接からんでいるということ。そして、その問題が、たとえ現実にありえない形をとっていても、現実世界で生きている私たち自身の問題と深いところで重なっていると感じられる、ということだ。そうでないと、読者は読むことによる感情体験を味わえず、それでは、暇つぶしの娯楽作品にはなりえても、読む意味のある本物の児童文学にはならないと思う。
 今回の候補作のうち、『宿神』をのぞく3作は、残念ながらそれらの条件にかなっているとは思えなかった。まず、『夜が明ける前に』だが、図書館司書である主人公が、古い閲覧室で寝てばかりいる10年前の自分に出会うというのはいいとしても、その眠りの原因とされる両親の離婚、友人の兄の死、登山での挫折体験は、相互に深くかかわって10年後の特別な体験を用意するほどのものとは読み取れなかった。夢の録画というSF的なアイディアも、主人公の問題とはかみあっていない。何よりも気になるのは、作者の意識の持ちようが、あまりにも大人的であることだ。主人公が大人であってもいいが、「こどもの嬌声」などという表現が平気で出てくるようでは、自分のなかの子どもと再会することはできないだろう。
 『ヴォカリーズ』は、「見えない世界」を見たり見せたりする超能力を持つ少女たちの物語だが、それが特定の村に生まれた人たちの宿命とされ、能力が細かく専門化していたりするために、理解しにくいだけでなく、ふつうの人間には無縁なこととしか受け取れなかった。肝心の「見えない世界」については、ぎょっとするようなグロテスクなイメージや、ファンタスティックできれいなイメージが、随所に散りばめられているだけで、結局その本質は何なのか、作者にも想定しきれていないのではないかと思われた。
 『河童とバイオリン』は、主人公の少年が祖母の家ですごすうちに河童マニアの少年と友だちになり、あとでそれが過去の父親だったとわかるという物語で、タイム・ファンタジーの定石どおりだが、そのぶん読みやすくまとまってはいる。だが、気がついてみると、主人公にはこれといった問題はなく、じつは死に瀕している父親との交流という特別な体験をしていながら、それによって何を得たというでもない。一方その裏側には、河童マニアだった少年が人生に挫折し、妻子を残して自殺するという苦い物語があるのだが、そっちの流れはきちんと把握できているとは思えないし、あまりにも希望がなさすぎる。
 『宿神』は、大きすぎる才能に翻弄されて苦しむ石工の若者と、その才能を本人以上に理解しているその競争相手とのあいだにくり広げられるドラマで、お先まっ暗な思春期の心の世界が濃密にとらえられており、共感しながら読むことができた。大きな才能というのは、うまく活かされなければ自滅に至る呪いになりかねないが、それを若者にとりついた土着の神の力として描いたのも適切だ。石の神や仏、山の巨木や洞穴などが超自然的な力を秘めていて、下手にかかわると祟りかねないというのは、現代の私たちでさえ捨て去ることのむずかしい、心の根っこにしみついたファンタジー感覚とも言うべきものだからだ。問題は、作品の魂がこれだけ見事につかめていながら、料理の仕方に難点が多いということだ。全体が2人の若者の思い出話だけでできていて、物語の現在時に何ひとつ起こらないのには拍子抜けさせられるし、その思い出話の語り口が、あまりにも泉鏡花節に溺れすぎている。いいものになりうる作品なのだから、自分の文体に立ちもどって、しっかりと語り直すことに取り組んでほしい。
藤田 のぼる
選考委員
(社)日本児童文学者協会事務局長

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)などがある。埼玉県坂戸市在住。

今回が一番読む楽しみを味わえたように思う
 選考に加わって3回目ですが、僕にとっては今回が一番読む楽しみを味わえたように思います。以下、一つひとつの作品に添って、感想を述べます。
 小林美緒さんの「夜が明ける前に」はいろいろなことを考えさせられた作品でした。仕掛けとしてはシンプルだし、夢の再生装置といういささか荒唐無稽ともいえる道具立てを使っているのはフム? という感じでしたが、しかしそれをストーリーの中で抑制的にしか用いず、あくまでも自分と自分、自分と他者との関係性の中でドラマを展開させていこうとする姿勢に、僕は書き手としての誠実さを感じました。また、10年後の記憶の再生という「解決」はやや予定調和的とも思えましたが、自分のことは結局自分で引き受けなくてはというメッセージは、真っ当なものと思えました。ただ、この作品に対しては選考会の中で、ファンタジーとしての未完成な面、心理学的な見地からの展開の不自然さなど、厳しい意見も相次ぎました。残念ながら、そうした批判をはねかえすだけの自覚性は、この作品にはまだないと思いましたが、ただこの作者には、ファンタジーとしての形を整えることよりも、ファンタジーとかリアリズムとかにとらわれずに、少年少女の心の成長を丹念に追いかけていってほしいと思いました。
 辻野陽子さんの「ヴォカリーズ」は、いささか判断に苦しみました。盛り沢山で読ませるところはあるのですが、それが統一的なストーリーに結びついていかないというか、焦点が合っていかない感じなのです。作品の舞台や道具立ての派手さに対して、プロットというか主人公の抱えている問題は割合平板で、そのどっちに寄り添って読んでいけばいいのか、戸惑いがありました。むしろ、道具立ての過剰さに見合った、もっとメリハリのある展開がほしかったように思います。
 谷登志雄さんの「河童とバイオリン」は、まとまりという点では、一日の長があったと思います。しかし、人物像、ストーリー、ファンタジーとしての仕掛け、いずれも平均点という感じで、作者のこの作品にかける思いのようなものを、今ひとつ感じとることができませんでした。父と息子の物語ですが、母や祖母の個性をもっと前面に出すことで、もう少し父と子の関係に奥行きが出たのではないでしょうか。それから、谷さんには、古今の児童文学作品をもっともっと読んで、好きな作品、嫌いな作品をたくさん見つけることをお勧めします。
 そして田中彩子さんの「宿神」。昨年の作品は、3重構造の不自然さが最後まで気になったのですが、今回の作品は2人の語り(人生)をパラレルに進行させていくという手法が効いており、作者の「これでいくんだ!」という、いい意味での「開き直り」のようなものを感じました。その上で時代ものとしての手触りが確かにあり、改めて作者の力量に感心しました。ただ、中心の2人の像はよく見えるのですが、周囲の人間たちや作品舞台が今ひとつ見えてこない。それぞれの語りで進行するのだから、これはある程度やむを得ないかなとも思いましたが、本当にすぐれた作品は、時にそうした語りの設定を読者に忘れさせて、作品世界そのものを眼前にしてくれるはずのものだと思います。「方法」に支えられながら、逆にその方法の呪縛から逃れ切れなかった、ということでしょうか。難しい注文とは知りつつ、さらなる精進を期待します。
中澤 千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員

●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安2郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。2007年3月まで二松學舎大学文学部客員研究員。千葉県市川市在住。

「宿神」はもっと大きな作品に化ける可能性がある。だから不満。
 いかにもファンタジー風の仕掛けをする必要はないのではないでしょうか。今回の場合、谷登志雄さん「河童とバイオリン」の河童、小林美緒さん「夜が明ける前に」の夢の再生装置、辻野陽子さん「ヴォカリーズ」の闇を見てしまう一族。それらは物語の中で無理なく機能しているでしょうか。アイディアのみで終わっているようです。その点、肩の力が抜けていたのが田中彩子さんの「宿神」です。石工たちのありあまる思いを描き、大げさな仕掛けがないのです。一作一作確実に腕を上げてきましたね田中さん。これまでの3作、作風がまったく異なるのもうならせます。今回は時代物ですか。過去2度の奨励賞を上回る巧さなのですから佳作は妥当なのでしょう。おめでとうございます。田中さん、佳作は重いですよ。これに満足することなく大賞を目指して下さいね。
 でも実のところ、私にはちょっと拍子抜けでした。巧いがゆえです。「宿神」はもっと大きな作品に化ける可能性のある作品だけに不満なのです。今ある姿でいい訳がありません。はっきりいえば書き込み不足です。申吉と寛次郎の語りを交錯させる手法はおおいに買えます。寛次郎が申吉の腕に嫉妬を込めて惚れており、それを居酒屋の女房に語るさまはエロティックですらあります。しかし、寛次郎に比べて申吉の語りがいまひとつなんですね。心の闇が読者に伝わるにいたっていません。もう少し枚数を使ってもよかっただろうし、申吉自身が語ることが難しければ寛次郎に又聞きさせるなどの工夫をこらしてほしいところです。
 私が一番面白く読んだのは「ヴォカリーズ」です。欠点の多い作品ではあります。最初に読んだ時にはゴチックの多用が目に痛く、観念的な行文にも付いていきたくなかったというのが正直なところです。見てしまう村人・一族という仕掛けは強引です。でも再読の際、それには目をつぶってみました。すると、どんどん頭に入ってきたのです。彼らには被差別の徴が付いているので、これはもう不条理
なのだとさえ割り切ってしまいました。唯子が、死んだと聞かされている両親を探すプロットには随所にヒントとしての障りが埋め込まれており、これこれとほくそ笑みました。絵に入っていくあたりは呼吸を整えてかからねばならぬ切迫ささえ覚えたのです。辻野さんは書ける人です。大仕掛けに頼ることよりもリアリズムの部分を磨くことを心がけて再挑戦して下さい。
 谷さんはするすると読ませる技を持っているのですが、肝腎なところが抜けています。父と子の現実の関係が分かりません。協が少年に出会う場面。父と同じ名を告げられたのに反応しないというのは不自然です。小林さんの描く人嫌いの司書。実際そういう人はいるでしょうから設定として駄目とはいいません。でも、サクは自分が司書であること自体に疑いをはさみません。むしろ仕事を聖化しています。サービス業たる司書の資格の第一は人好きであること。本が好きだから司書になりたいなどというのは誤解もはなはだしいのです。主人公を相対化する目が弱いのは気になりました。
工藤 左千夫
選考委員会代表幹事
絵本・児童文学研究センター理事長

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。北海道小樽市在住。

「ファンタジー」だから、何を書いてもいいとは限らない。
 今年度の選考会は危機的であった。選考委員長の河合隼雄氏が8月に脳梗塞で倒れられた。また、脇明子委員も病気のため、委員就任9年目で初めての欠席になったが、脇委員から事前に貴重なコメントをいただいた。そのコメントによって選考会での大きな流れが出来たことは確かである。感謝。さらに、工藤が右下腿の疾患によって、いつ入院と外科的処置が必要になるか予測できない時期でもあった。しかし、選考会では、斎藤惇夫選考委員長代行の見事な行司役によって、今までの選考レベルは維持された。紙面を借りて斎藤惇夫さんや選考委員各位に御礼申し上げたい。
 今回の応募作品の傾向は特になかったが、全体的に「宿神」以外は「頭で創った」ファンタジーの域。特に「夜が明ける前に」は心理学者の河合先生を意識して書いてきた、と思わせるほど心理学的な表現や内容が多かった。いや、多すぎた。それもそちらの分野に対する不勉強が目に余るほど……。確かにファンタジーであるから、荒唐無稽の物語が生じても構わないのだが、ディテールの詰はそうはいかぬ。夢屋という職業設定は面白いにしても「夢の加工」はいただけない。フロイト的に述べれば、加工自体は夢見手の自我防衛機制なので第3者がかかわれる世界ではないし、加工にも1次・2次があり、それほど安易に扱えるものでもない。また、河合先生の専門であるユングでは、この加工自体を認めないばかりか、夢つまり無意識を自律性としてとらえているため夢分析自体がフロイトとは異なってくる。それに「2重身」的に主人公の10歳前後の自分と出逢うシーンもそうであるが、主人公のみではなく多くの人々がそれを目撃する。ここまでくれば論外である。夢を扱うのであれば、かなりの危険を伴うのではあるが、やはり夢に入ることしか作品としてはなりたたない。名作『マリアンヌの夢』『トムは真夜中の庭で』などは作家の真摯な姿勢で夢が成功した数少ない作品例である。「頭で創った」言葉の羅列はもう結構。もう少し自らのフィルターを通した「文学」というものに立ち向かって欲しい。これは「河童とバイオリン」「ヴォカリーズ」でも言えることである。とにかく、これら3作とも表層的な作品ばかり。原稿を読み進めていくと直ちに答えがわかるほどの薄さである。
 「宿神」の田中さん。奨励賞2回で、今回、ようやく佳作を射止めましたね。本当におめでとう。評については他の委員が全て述べているので避けますが、いまだ完成(大賞)の域には来ていない。貴方は、その域まで行ける書き手だと思っています。各委員の評を参考に新たな稿に挑戦するか、優れた編集者と出会い、とにかく一冊の本として世に問うか、そのような時期に来ているのかもしれません。方向はどうであれ、さらなる飛躍を望んでいます。ただ、今回は何となく原稿枚数を「自己規定」していませんでしたか? それが非常に気になるところでありました。