ドーンDAWN13号


2005年11月20日発行
第11回児童文学ファンタジー大賞選後評

大賞該当作品なし
佳作該当作品なし
奨励賞「白線」田中彩子

 第11回児童文学ファンタジー大賞の公募は2004年11月から2005年3月31日までの期間で行われた。応募総数195作。
 一次選考において18作、二次選考では5作が通過、三次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

 「送り人の娘」廣嶋玲子
 「白線」田中彩子
 「渡し守」青山真智子
 
 最終選考委員会は河合隼雄(委員長)、斎藤惇夫、工藤直子、脇明子、藤田のぼる、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2005年9月11日、小樽にて開催された。
 選考会は、大賞推薦の作品の有無から始まり、結果として大賞・佳作とも該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
 続いて、奨励賞の選考審議に入り、田中彩子「白線」が本年度の奨励賞に決定した。  
田中彩子
東京都在住26歳
早稲田大学第一文学部卒

「白線」 500枚(400字原稿用紙換算)
奨励賞「白線」 田中彩子

▼受賞コメント
 贅沢なことだと思います。賞をいただいたことはもちろんのこと、たしかに前より成長してはいると、こんなふうに先生方によって認めていただけるのは、なかなか上達しない者ならではの特権だと思います。(本当は、そんなことではいけないのでしょうけれど。)
 正直なところ、今回、なにを思いながら書いていたのか、よく覚えていません。ここで悩んだとか、何度か大きな変更をしたとか、記憶として残ってはいるのですが、体感としては、すっぽり抜け落ちてしまっている。その抜け落ちたあとの虚ろな空間に、なんともいえない不安が、フラスコ内の煙のようにゆったりと充満している。選考経過も、一喜一憂するというより、滾々とわきでる不安ともつかない不安にまとわりつかれながら、ぼんやりと眺めていました。
 どこへ向かえばいいのか。
 その一言につきるのかもしれません。
 ひょっとしたら、三年前のほうが、確固たる信念の上に立っていたかもしれません。児童文学というものを初めて書いたのが三年前で、恥ずかしながら、当然、児童文学の何を知るわけでもありませんでした。その無知が、強気につながっていたのだと思います。だが踏み出してみて、その深さ、大きさに触れて、迷ってしまった。とりあえずこっちに進んではみるけれど、いや、今の自分ではこっちにしか進まないけれど、この方向でいいのか、確信がつかめない――抽象的な話ではありますが、そんなふうに、いつも迷っていた気がします。
 正しい道、などないのだと思います。私が「本当にいいもの」を判じられなくて闇雲に迷っているのは、まだまだ修行が足りないからというのが第一の原因ですが「本当にいいもの」はもともと、自分さえしっかりしていれば、どこへ進もうが、生まれてくる可能性がある。だから正しい道はどこにもないし、どこにでもある。とにかく手探りで歩いて行くしかない。
 歩きながら、自分で納得できるような本当にいいものには、たぶんずっとたどりつけないのだろうな、という予感もあります。くらくらしそうだけれど、それでもそこに挑みたがってやまない自分がいる。だから飽きもせずそこを目指そうと思う。幸せなことだと思います。
 遅々とした歩みではあるけれど、とりあえず、前に向かってはいる。それを実感できたことを、なによりも嬉しく思います。本当にありがとうございました。もっと頑張んなさい、というこのお声を背にうけて、これからも気をひきしめて、精進していこうと思います。
河合隼雄
選考委員長
文化庁長官/臨床心理学者/絵本・児童文学研究センター名誉会長

●世界的な臨床心理学者として著名であり、豊富な臨床体験と東西文化の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築。著書『神話と日本人の心』(岩波書店)、『ケルト巡り』(日本放送出版協会)、『深層意識への道』(岩波書店)、『大人の友情』(朝日新聞社)、近著には『過保護なくして親離れはない』(五月書房)、『河合隼雄の万博茶席』(中日新聞社)。奈良県奈良市在住

ファンタジーは人間のたましいから生み出されてくるもの
 期待を持って作品を読ませていただくのだが、今回も大賞はなかった。と言うよりも、もっと失望の念は大きかった。毎回同じことを言っているようだが、皆さんが「ファンタジー作品」というのを誤解しているのではないか、と思う。
 エンターテインメントとしてのファンタジー作品というのもあるらしいが、そんなものに少し目を通すだけでも、こんなことでエンターテインされる人は、余程の暇人なのだろうと思う。こんなのを読むぐらいなら新幹線の車窓から景色をぼうっと見ている方がはるかに楽しいと思う。
 一言で言えば、ファンタジーは人間のたましいから生み出されてくるものであって、頭でつくり出すものではない。
 嘆いてばかりいてもはじまらないので、最終選考に残った作品について少しだけコメントすることにしよう。この三作を通じて、死後の世界ということが関連していることが印象的であった。現代人にとってともすれば忘れられ勝ちではあるが、いかに生きるかの背後にはいかに死ぬかという重大な問いが存在している。それに答える上で、「死後の世界」というファンタジーは大切な意味を持ってくるものである。
 青山真智子さんの「渡し守」は、日本に古来からある「三途の川」に新しい見方を導入して、死後の生命について考えようとする試みは、興味深く思われた。しかし、残念ながら、アイデアも文章もあまりにも安易である。これはおそらく作者の「死」あるいは「死後の世界」に対する受けとめ方の安易さを反映しているのだろう。
 廣嶋玲子さんの「送り人の娘」は、私にとっては「つくり話」の典型のように思われた。砂を噛まされるような味気なさを味わいつつ最後まで読んだ。「つくり話」を楽しむ人たちも居るので、そちらのジャンルに挑戦するか、もし、ファンタジー作品を書くつもりなら、人間のたましいということについて、相当に深い体験をすることがまず必要であろう。
 田中彩子さんの「白線」が、もっとも親しみやすかった。と言っても、それは「佳作」の域に達していなかった。作品にしようとする無用な努力や工夫がありすぎて、作品の迫力をなくしてしまっている。「天狗に会う」というのは、少数の人間だけに生じることだ。せっかく「天狗に会った」のだから、その事実をしっかり書くのだ、というほどの姿勢が必要なのである。
 敢て二度目の奨励賞を出した選考委員の気持ちに応えて......と言っても焦らずに、じっくりと天狗たちにつき合っていただきたいものである。
 現代はほんとうにファンタジーを必要としているときである。しかし、それが少し歪んだ形となって「つくり話」がもてはやされ勝ちなのを残念に思う。来年こそは、本格的なファンタジーの出現に期待したい。
斎藤惇夫
選考副委員長
児童文学家/絵本・児童文学研究センター顧問

●長年福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(アリス館牧新社:現在は岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)。埼玉県さいたま市在住

三人の若い書き手に......

 選考委員の掟破りをして、失礼を省みず、三人の若い書き手に、元編集者としてのお節介を焼かせていただきます。
 
 (一)渡し守
 江戸時代からつづいている老舗の和菓子屋で、住み込みとして働いてみて下さい。そこで、和菓子を作ること売ることがどういうことなのか経験して下さい。店の構え、家の内部、親子関係も含めた人間関係を観察して下さい。なによりも、どうやって味が伝承されていくのか、しっかりと見て下さい。時間のある時には、資料を読みあさり、江戸を散策し、殊に、子どもたちが日々どう生きていたのかよく観察し、彼らと語り合い遊ぶことができるようになって下さい。そうやって見たり、聞いたり、遊んだりしたことを、正確にノートに記しておいて下さい。と、それが「渡し守」を書きはじめる前に、著者がしておかなくてはならない基本の作業です。そこから物語は書きはじめられるべきですし、その上で、あなたの物語が、リアリズムでは表現しきれない「なにか」、おそらくリアリズムでは語りえない人間の心を発見した時に、あなたのファンタジーを語り始めて下さい。
 
 (二)送り人の娘
 『ホビットの冒険』でもいい、『たのしい川べ』でもいい、『くまのプーさん』でもいい、賢治の作品でもいい、子どもたちが愛し守り抜いていた作品を、重要な箇所は暗唱できるほど読みかえし、またトールキン自身のファンタジー論でも、ピーター・グリーンのグレアム論“ Beyond The Wild Wood "でも、ミルンの自伝『今からでは遅すぎる』でも、例えば中沢新一の賢治を語った幾つかの文章でもいいから丁寧に読み、作家と作品との凄絶な緊張関係を知って下さい。これらの作家が何故ファンタジーという方法をとり、何故子どもたちに向けて語ったのか、それを静かにゆっくり考えていただきたいのです。つまり、あなたが子どもの頃に、あるいは無論今でもかまいませんが、それらの作品を読んで感じたに違いない「歓び」が、一体どこからきているのか、今一度しかと捕らえなおしていただきたいのです。その「歓び」を感じる自分に「歓び」を感じ、その「歓び」が自分の「生きる歓び」に繋がっていったことを確認していただきたいのです。子どもたちに向かって物語を書くことは、そこから、そして、そこに向かって、と思うからです。
 
 (三)白線
 おじいさんのノートに天狗の世界を記しているうちに、ペンが作者を超えて動き始め、文体も内容もノートを超えて物語を語ってしまい(あるいは、最初にノートの部分を完成し、その前後を書き加えたのでしょうか)完結し、物語全体の構造を歪めてしまったように思えてなりません。少年たちの住むこちら側の世界の描き方が甘くなってしまったのです。こちら側の人間、主人公の少年、その祖父、少年の友人たち一人一人にとっても、実は、天狗たちが人間を必要としているように、何としても天狗の世界に足を踏み入れる必要があった、というところまでは描かれていないのです。そのために、少年とおじいさんの関係、おじいさんと天狗の関係、天狗と人間の関係、そしてそれらの関係の有機的な繋がり、それこそが天狗が最後に守ろうとしているものと深い関わりがあり、この物語の要であったはずと思われるのに、その要が曖昧になりよく見えてこないのです。折角私たちの国から姿を消したと思われていた天狗を、身近なものとして再発見してくれたのに、残念至極です。もう一度ノートをノートとして短く整理し、今度はこちら側の人間を描くことに力点をおきながら、この物語を、ゆっくりと、時間をかけて完成させていただきたいと思います。
工藤直子
選考委員/詩人/絵本・児童文学研究センター顧問

●詩・童話を中心にエッセイ・翻訳の分野でも活躍中。著書『てつがくのライオン』(理論社)、『のはらうたI~IV』(童話屋)、『こどものころにみた空は』『象のブランコ-とうちゃんと』(ともに理論社)、『工藤直子詩集』(角川春樹事務所)、『ともだちは海のにおい』(理論社)、『クヌギおやじの百万年』(朝日出版社)、『みんないきてるみんなでいきてる!』(偕成社)、『リュックのりゅう坊1ともだちいっぱい』(文渓堂)、『うみ』(フレーベル館)、『子どもが選ぶ詩101』(学陽書房)、紙芝居『ねこはしる』(鈴木出版)。静岡県伊東市在住

「見えない部分」を探るチカラを
 どんな世界を見せてくれるだろう?
 最終選考に残った候補作を前にして、毎回期待と楽しみで一杯になりながら読みはじめます。ぐんぐん引きこまれ、我を忘れて、作者が創りだすファンタジーの世界に連れ去られることを願って。
 しかし今回も残念ながら、大賞、佳作に推す作品はありませんでした。どの作品にも、うなずいたり、引きこまれたりする箇所はあるのですが、そのチカラが弱い。非常にしばしば、え? となったり、うーむ、と考えこんだりして中断され、ファンタジーの世界に入りこめません。
 「渡し守」は、三途の川を渡る主人公とその仲間、生まれ変わりの準備や、渡し守の設定などに工夫が見られましたが、江戸時代という設定がしっかり出来ていないので(会話や生活様式、習慣など)、物語がぼやけて平板になりました。
 「送り人の娘」は、筆力のある作者だと思います。主人公の伊予や、育ての親真由良の描写に、リアルな手触りを感じました。しかし描かれるのは、闘争と殺戮の活劇の世界で、読者の魂をゆさぶるような、いわば芯になるものが足りない。この筆力に磨きをかけ、自身の深奥にあるはずのテーマを探って示して欲しいと願います。
 「白線」は、天狗を中心に、少年たち、祖父の日記、彼らを取りまく人々......と、時間を行きつ戻りつして物語が展開します。天狗の場面に魅力と迫力を感じ、引きこまれました。しかし物語を構成する素材やエピソードが未消化のまま投げ出された部分が多く、読者も未消化のまま放り出されてしまうのが残念でした。
 文学であれ音楽や絵画であれ、創りだされた作品は、たとえば氷山の「海面に現れた」部分だと思います。海中の「作品には現れない」部分に、どれだけ自身のチカラで巨大な氷山塊を創りあげられるか......作品づくりは、その見えない部分から始まっています。海中の氷山塊が大きければ大きいほど、作品は高くそびえ光り輝く。それは、作品のジャンル、大小、長短を問いません。
 たとえば、わずか十七文字の俳句で、激しく心をゆさぶられることがあります。それは、その十七文字の背後にある氷山塊をも一緒に、我々が受けとめているからではないでしょうか。
 最終選考に選ばれた作品は、応募総数一九五編の中から一次、二次、三次と選考を通過して残った三作の長編です。いずれも、長編を書き上げるエネルギーを持った作者たちです。二〇〇枚、五〇〇枚と書きつづけるのは、おそらくそれぞれに皆、なにかを求めているのだと確信します。
 どうか書き上げるエネルギーと共に、自分自身の「見えない部分、なにかを求めている部分」を探ることにも最大のエネルギーを費やしてください。それこそが創作の生命だと思います。
脇明子
選考委員
評論家/翻訳家

●ノートルダム清心女子大学教授。大学で児童文学の講座を担当。著書『ファンタジーの秘密』(沖積舎)、『おかぐら』(福音館書店)、『読む力は生きる力』(岩波書店)。訳書『不思議の国のアリス』(キャロル著)、『ムルガーのはるかな旅』(デ・ラ・メア著)、『ぐんぐんぐん』(マレット著)、『クリスマス・キャロル』(ディケンズ著)、『雪女夏の日の夢』(ハーン著)、『九つの銅貨』(デ・ラ・メア著)、『かるいお姫さま』(マクドナルド著)ともに岩波書店。岡山県岡山市在住

まるで方向の違う三つの「がっかり」
 昨年の候補作はどれもなかなかの出来だったが、今年の三作には、正直言って、かなりがっかりさせられた。とはいえ、その「がっかり」の中身はまるで方向のちがうもので、それがファンタジーについて考える上で、いささか興味深くもあった。
 まず「送り人の娘」は、商品になりうるという意味では、最も出来のいいものだったかもしれない。筋は粗雑とはいえ、一応通っているし、死者の魂を黄泉の国へ導く巫女とか、美しいけれども残酷な王とか、主人公を護ってくれる狼人間など、いまの若い読者に好まれそうなモティーフがそろっている。だが、血みどろでグロテスクなイメージが連発される殺伐とした世界は、読んでいてあまりにも不愉快だ。たしかに思春期は、性と暴力のイメージに満ちた異界へ迷いこみやすい時期で、若者たちがこういうものにはまるのは理解できる。だが、私たち大人が差し出さなくてはならないのは、残虐な復讐の快感やエロティックな白昼夢を提供するだけの麻薬のような作品ではなく、その異界から抜け出すための力となり、道しるべとなるような作品なのではないだろうか。
 その次に読んだ「渡し守」は、人情話のようにのんびりほんわかしていて、血しぶきにまみれた後味の悪さを忘れさせてくれたのはありがたかった。だがこれは、時代考証といい、筋の構成といい、人物造形といい、文章表現といい、あまりにも拙いところだらけで、物語として楽しむには至らなかった。江戸時代の高級和菓子屋が間口五十間、というあたりで、もう想像力がストライキを起こしてしまうが、その店のわがままなお坊ちゃまが三途の川まで行ってきてころっといい子に変身する、という筋書きは、いくらなんでも図式的すぎる。主人公の心の変化を描くには、その人物の内側にはいって、想像力を働かせながら、あらゆる出来事をともに体験することが必要なのだ。
 「白線」の作者は、べつのペンネームによる奨励賞受賞作がなかなかの筆力で、そのときの問題点を克服すべく努力していると聞いていただけに、ひそかに期待しながらページを開いた。結論から言えば、問題点は立派に克服できたし、筆力には磨きがかかっているし、ファンタジーとしてのアイディアも悪くなかったのだが、全体の構成に欠陥がありすぎ期待したぶんだけ「がっかり」も大きかった。
 物語は、主人公である現代の少年タモが、死んだ祖父のノートに「天狗に遇ふ」という一行を見つけ、その真相を探るという形で展開する。この一行の謎はとても魅力的だし、タモの家が弓道場つきの民宿という設定もなかなかいいが、天狗の話と弓道はいっこうにからんでこないし、ファンタジーにはいるまでが長すぎて息が切れる。祖父は昔、木三太という天狗に会って身の上話を聞いており、それを綴ったノートがやがて見つかる。その内容は、人間の少年が天狗になっていく過程といい、村に残る天狗伝説の意外な真相といい、興味津々で読めた。だが、たった一夜の出会いで聞いた話を思い出して書いたにしては、内容が深すぎ、臨場感がありすぎて、あまりにも不自然だし、タモがただノートを読むだけというのもあっけない。人間と天狗とのあいだに立って悩む木三太と、けろっと天狗になってしまう千吉という少年との対比など、異界に心ひかれる少年の成長の物語として大きな可能性を感じさせるだけに、構成の工夫の不足が惜しまれる。
 ひとつ納得できなかったのは、天狗が子どもを生贄にして山を鎮めるという残酷な話がからむことだ。これは木三太や千吉の話とは別問題で、焦点がぼやける上に、後味が悪い天狗になる少年たちの話だけでもっと深められるはずなのに、巣守、はざま、河童などと手を広げすぎると、せっかくの天狗までがリアリティと魅力をなくしてしまう。
藤田のぼる
選考委員
(社)日本児童文学者協会事務局長

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)などがある。埼玉県坂戸市在住

人間が人間であろうとするための心の闘いの手触り
 選考委員として2年目の今年も、個々の作品に対する印象とからみながら、いくつかのことを考えさせられた。まずは、読んだ順に、それぞれの作品に対する感想を述べる。
 最初に読んだ「渡し守」は、言葉の選び方ひとつひとつに気になる箇所が多かった。例えば、冒頭から「身分の高い大名や御家人」(身分の高いのは旗本で、御家人はお目見え以下)とか、「正左衛門の死には尾ひれがついた」(尾ひれがつくのは、死をめぐる噂にだろう)とかの連発で、なかなか作品世界に入っていけなかった。歴史小説のような厳密な時代考証は要求しないし、現代風の言葉遣いもこうしたタイプの作品では構わないと思うが、それにしても杜撰に過ぎると思った。作品世界としては落語などと重なるおもしろさがあると思うので、そうした語り物の文章など研究されたらいいと思う。
 次に「白線」を読んだ。この作品は、六年生の保が住んでいる現在の世界と、彼が発見した祖父のノートの世界との二重構造でできているが、ノートの中味自体が、祖父の回想の部分と天狗の世界の住人である木三太からの聞き書きという二つの部分から成っているから、全体としては三層構造ともいえる。もっともおもしろかったのは木三太からの聞き書き部分で、人間の世界・天狗の世界のどちらにも染まりきれない彼のありようには、作者がこれを書かずにはいられない迫真性を感じた。だが、その部分の文章はどう読んでも「聞き書き」の文面のようではなく、これだけの筆力を持った作者がそのことにまったく気づいていないとは思えないから、こういう形で読む側にゲタを預ける作品のありようには疑問を感じた。
 その点、最後に読んだ「送り人の娘」は、少なくとも作品として自立していると思った。ヒロインの伊予が思春期を迎える時期に、自身の生い立ちの秘密や力に目覚めていく展開は、荻原規子のデビュー作「空色勾玉」を思い出させるが、その作品世界はさらにエンターテインメントもしくはライトノベルの世界に近いと感じた。より具体的に言えば、伊予はもとより、彼女を助けるもう一人のヒロイン闇間を始めとする脇役たちのキャラクターも際立っており、彼らをストーリー展開に絡めていく手際にも感心したが、逆に言えば登場人物が作者の都合で動かされている感じでもあり、人間としての奥行きに欠けていると思った。これはこれで、すでにある程度の読者を獲得できる作品だと思うが、この賞が求めている作品世界とは距離があると感じた。
 では、本賞がどのような作品を求めているのかという点は、簡単に言葉にできることではないし、選考委員が思ってもいないような作品が出てくるという展開もうれしいと思うが、やはり物語作りの完成度ということと共に、人間が人間であろうとするための心の闘いの手触りが、読む側に伝わってくる作品であることが求められるのではないか。あるいは、読者にカタルシスを与えるというよりも、読者の側の問題を引き出すような作品というか、いずれにしてもこの賞が「児童文学ファンタジー大賞」と名づけられている意味を、改めて考えさせられた選考となった。
中澤千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員

●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)。現在『日刊サッポロ』(月曜日発売号)に「颯手達治論失われた〈若さま〉を求めて」を連載中。北海道小樽市在住

まどろみの重畳の中で、読み手もまた眠りに誘われる心地よさ
 田中彩子さん、奨励賞おめでとうございます。二度目ですよね。二度の奨励賞というのは異例かもしれません。でも前回(第八回)よりおおいに前進したことが評価されました。大賞・佳作に至らなかったのは、作品がバランスを失しているからでしょう。五百枚はしんどいと最初に読んだ時は思いました。つまり「木三太」の部分ですね。長すぎるんです。ところが、再読してみて意見が変わりました。「木三太」が長いというよりも、むしろ、「木三太」をサンドイッチしている「白線」の現実部分が書き足りないのではないかと。作者に好意的に推察するなら、天狗話の想像が次々とふくらんでいった結果、制限枚数では窮屈になってしまったのでしょうね。とはいえ、それではいけません。制約の中で最善を尽くすのが当然でしょう。「白線」を外れてしまうことは境外へ踏み出すということ。でも、その現実はきっちりと書き込まれなければなりません。「白線」というタイトルそのものは悪くないのですが、全体の中で機能していないのです。もう少し時間をかけて構成を練られなかったものかと惜しまれます。
 でも、実に生きいきと天狗が語られているのがいいですね。作者が楽しんでいるのが伝わってきます。
 何百人何千人が死ぬよりも、「たった七人の子どもを犠牲にするほうが正しい」という政治の論理を主張する巣守に対し、「俺」(木三太)は反撥します。福田恆存の「一匹と九十九匹と」を思い出します。福田は政治の酷薄さを否定して、文学の「阿片」性を肯定します。文学的想像力ですね。いってみれば、その想像力を祖父を通じて孫の保が受け取ることになるのですね。
 私が大好きなのは、眠りの重畳とでもいうべき仕掛けです。「私」(祖父)は目をつむり、意識が遠のきます。「私はいつも夢と現のはざまを歩いている気がしてならな」いのです。まるで江戸川乱歩ですね。これは語りが「俺」に移っても同じなんですね。さらに次郎太、百舌、猫など「まどろんだ意識がいたるところでうずくまり」、「まどろんだいくつもの意識が(略)みじろ」ぐのです。まどろみが重なり、深化していくのです。まさに夢の中の物語。冗談に聞こえるかもしれませんが、このまどろみの重畳の中で、読み手もまた眠りに誘われる。そんなダイナミクスを私は、おおいに楽しんだのでした。
 廣嶋玲子さんの「送り人の娘」は大きな議論を呼びました。二十四歳という若さですよ。とてつもない書き手です文章力も構成力も非凡です。この作品が宮崎駿やティム・バートンで映像化されれば、どんなに引き込まれることでしょう。
 ただし、この物語において登場人物はストーリーを展開させる駒として機能しているに過ぎません。一番いけないのは、主人公の伊予が魂掛け、よみがえりを行う場面で彼女に葛藤がないことです。もっとさりげない話から始めてみませんか。
 青山真智子さんの「渡し守」はとても楽しく読みました江戸の菓子屋という題材がユニークですね。ただし、江戸時代に材を取るなら、時代考証はきっちりとしなくてはいけません。ぼんぼん正太郎の闇もいかにも浅いですね。
工藤左千夫
選考委員会代表幹事
絵本・児童文学研究センター理事長

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』(ともに成文社)、『学ぶ力』『笑いの力』(ともに岩波書店河合隼雄他共著)。北海道小樽市在住

今後とも苦しみながらファイト!!
 早いものである。児童文学ファンタジー大賞を創設してから十一年。準備をあわせると十三年もの時間を本賞とむきあってきた。河合先生をはじめとして選考委員各位には、多忙の中を、とにかく本賞のために時間を割いていただいた。言葉にすれば簡単であるが、候補作の読了、それらに対しての評価、選考会のための来樽、さらに授賞式での来樽など、薄額な選考料では申し訳ない、と主催者として思っている。とにかく選考委員各位のガンバリには敬意を表したい。そのエネルギーは、各位の真摯な姿勢のみならず、新たな文学との出会いを期待する一文化人の探究心なのである。
 あえてこのようなことを記したのは、今回は全体的に作品が低調すぎたという事実。この低調さは、ファンタジーを創作する難しさに、応募者が真正面から取り組んでいないと選考委員に思わせたためである。とにかく安易なテーマやプロットだけが目にあまった。
 今回は最終選考作品のみならず、全体的に「よみがえり」のプロットが多すぎた。これは流行の『いま、会いにゆきます』などの映像文化の影響があったのだろうか。一般的にファンタジーとは「非現実の出来事でありながら目に見える現実以上の確かさで人間の本質に迫るもの」という感覚で語られる。ここで重要なのは「現実以上の確かさで人間の本質に迫るもの」ということ。「人間の本質に迫る」契機だけは、安易過ぎるプロットは厳禁である。これは魔法を使用するハイ・ファンタジーにおいても同じ。
 ファンタジー理論の源流は古代ギリシャの演劇論から始動する。その時代においても「デウス・エキス・マキーナ」(機械仕掛けの神)的な解決方法は低位な作品と位置づけられていた。これは何か困ったことがあれば、月光仮面が登場し総てを解決するといった類のものである。この月光仮面が単純な魔法や「よみがえり」では困るのである。優れたハイ・ファンタジーに共通しているのは主人公が最後には魔法を使えなくなるか、肝心な時には魔法に頼れないということである。そこでは、逆に魔法ではなく人間の総合的な力こそが重要なのである。ファンタジー創作の難しさはここにある。
 ハイ・ファンタジーではないが、第三回大賞受賞作『鬼の橋』(福音館書店)で考えて観よう。主人公の少年、小野篁が自らの不注意で異母妹を死なせたという精神的な鬱屈が、表層的には作品を牽引させていく。がしかし、その解決として「あの世」に行きつつもそこで妹が登場することはない。ここで妹が登場したとしたら、『鬼の橋』は三流の作品になっていただろう。もし妹が登場し篁が妹に許しを請い、そして慰められるとしたら腑抜けの作品である。それをしなかったところに伊藤遊の作家としての才能(魂)がある。結果として作中の篁は、篁自身の個的課題を超え、成長期における少年の普遍性を獲得した。そして多くの読者の共感を呼んだのである。この作家の魂の努力を軽視してはいけない。
 今回の選評につては他の選考委員にお任せしよう。理由は各選考委員の選評で言い尽くされていると判断したからである。最後に田中彩子さん、二度目の奨励賞受賞おめでとう。これは特例中の特例です。それだけ貴方の将来に各委員は期待しているのです。今後とも苦しみながらファイト!!