ドーンDAWN12号


2004年11月14日発行
第10回ファンタジー大賞選後評

大 賞 該当作品なし
佳 作 「観音行」奥村 敏明
奨励賞 「冬の龍」藤江 じゅん
    「はざまの森」本城 和子

 第十回児童文学ファンタジー大賞の公募は2003年11月から2004年3月31日までの期間で行われた。(第11回は2005年3月31日締め切り)応募総数221作。一次選考において18作、二次選考では6作が通過、三次選考会においては次の4作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

奥村 敏明 「観音行」
藤江じゅん 「冬の龍」
古市 卓也 「最後の手紙」
本城 和子 「はざまの森」

 最終選考委員会は河合隼雄(委員長)、斎藤惇夫、工藤直子、脇明子、藤田のぼる、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2004年9月26日、小樽にて開催された。選考会は、大賞推薦の作品の有無から始まり、結果として大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。続いて、佳作と奨励賞の選考審議に入り、奥村敏明「観音行」が本年度の佳作に、奨励賞には藤江じゅん「冬の龍」、本城和子「はざまの森」が決定した。
奥村 敏明
愛知県在住  45歳
立命館大学文学部卒業
「観音行」
360枚(400字原稿用紙換算)
佳 作「観音行」 奥村 敏明

▼受賞コメント
 何年も前から、仏像が活躍する物語を書きたいと思っていました。しかし、仏像は簡単には歩いてくれず、しゃべってもくれません。どうしたら動きだすかすらわからないまま、時間がすぎていきました。
 平安時代の東国。平将門の乱にまきこまれた少年のすがたが見えてきたとき、ようやく仏像が動きはじめます。ところがこの仏像。十一面観音でありながら、馬にけられ、川にながされ、いつも少年に助けをもとめるような、なさけない奴だったのです。
 この足手まといにしかならない観音ができること。それは厳しい時代を生きぬく人々を救おうとする、つよい決意と祈りだけでした。
 その祈りに後押しされるように、少年が活躍をはじめます。戦乱の中をくぐりぬけ、自分たちの生きる場所を見つけだしていくのです。
 どんなに悲惨な状況であっても、こどもたちは生きていかなくてはならない。そのとき、観音が一緒にいてくれたら、どんなにこころづよいでしょう。
 仏像は人がつくりだしたものです。けれど、人々の祈りによって聖なるともしびがともり、この世に生きるものすべてを照らしだしてくれるのではないか。観音の光によって、生命の意味がうかびあがってくるのではないか。
 そんなことを思いながら、この作品を書き上げました。

 この作品は、三重県四日市のこどもの本専門店、メリーゴーランドが主宰する童話塾に提出されたものです。六カ月にわたって書きつづけられたこの物語を、きびしく、かつ楽しく批評し、はげましてくださった増田喜昭さんと、塾生の仲間たちにこころからの感謝をささげます。

藤江 じゅん
東京都在住  39歳
法政大学中退
「冬の龍」
487枚(400字原稿用紙換算)
奨励賞「冬の龍」藤江 じゅん

▼受賞コメント
 昨年、本賞に応募して、一次通過という通知をいただきました。長編の執筆はそれが初めてで、おそるおそる応募した初長編の一次通過には大変勇気づけられました。そして今回、二度目の応募で奨励賞。本当に思いがけないことで、とてもうれしく思っています。
 子どもの頃、夢中で読んだ物語には不思議な魅力がありました。それがファンタジーだと知ったのはのちのことですが、なかでも現実と空想世界を行き来する物語に心魅かれました。そんな不思議な出来事も本当にあったかもしれないと思わせるくだりが出てくると、わくわくしながら頁を繰りました。
 それから数十年経ったいま、そういった物語を自分でも作ってみたいと思い、作品を書きはじめました。もちろん、簡単にはいきませんでした。悩んだすえに、リアリティを持たせるために土地勘のある現実の場所を舞台にし、実際にある伝説なども作中の要素に取り入れて、物語を組み立てはじめました。資料は近くの図書館で入手できるし、調査するにも散歩気分で楽であろうと、軽い気持ちで考えたのです。
 言葉を紡いでいる最中には、楽しみも多くありました。和音によって深い響きが生まれるように、土地の伝説と自分の作り話とが共鳴しあうような感覚が得られたときなどは、軽快に書き進むことができました。しかし、物語は作者の内面を浮き彫りにしてしまいます。今回の作品でも、自分の裡に持つ浅はかな人生観が露呈してしまったと感じています。それは、安易な気持ちで物語の構築に臨んだ当然の結果でもあるのだと痛感しています。ほんもののファンタジーにとどくまでには、道のりは長いでしょう。それでも今回いただいた賞を励みに、先生方の評を心に深く刻みつつ精進し、また次の作品に挑戦したいと思っています。最後になってしまいましたが、審査員の先生方と関係者の方々に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

本城 和子
神奈川県在住  55歳
慶應義塾大学文学部卒業
「はざまの森」
390枚(400字原稿用紙換算)
奨励賞「はざまの森」本城 和子

▼受賞コメント
 子どもの本の翻訳をしながら、いつか自分の物語を書きたいと願ってきた。けれどもいざ書きはじめると、すぐに思い知らされた。翻訳に取り組もうとする原書の物語に比べ、自分がつむごうとする物語はいかにも稚拙なのでは? 何よりまずいのは、書いている本人がさほどわくわくしないこと。書き手がわくわくしない物語で読者をわくわくさせられるはずがない。多少言葉が操れるからといって、物語が書けるわけではないのだと痛感させられて悔しかった。創作なんて、もうあきらめようとも思った。
 が、一昨年、机の整理をしていて、十数年前に五十枚ほど書いて投げ出した原稿にふと手がとまった。これは、思い描いていたストーリーが稚拙だから投げ出したものではない。むしろ、思い描いていた以上のストーリーをはらんでいたために、その頃の自分には手に負えなくて放り出したものだ。読み返してみると面白く、この先どうなるんだろうと好奇心をそそられた。同時に、今ならその続きが書けそうな気がした。
 続きを書く作業は楽しかった。書きながら、え、そうだったんだとびっくりしたり、なるほど、こうなるのかとうなずいたり――物語をたどることに、間違いなくわくわくした。それでいながらどこかで、十数年を経てもまだ手に負えない部分があるのを感じてもいた。ストーリーが要求するものに、書き手として応えられない。これは怖いことだった。自分という人間の生き様を問い直されているような気さえした。
 おしまいはねじふせるようにして仕上げた。無理矢理であれ、ずっと望みつづけてきたオリジナルの長編をとにかく書き上げたのだ。欠点があるのはわかっていても、愛おしい。その物語が奨励賞をいただけた。奨励賞なのは欠点をごまかしきれなかったからだなと思いつつ、今は満足している。これを励みにまた次の物語が書けそうな気がしているから。

河合 隼雄
選考委員長
文化庁長官
臨床心理学者/絵本・児童文学研究センター名誉会長
● 世界的な臨床心理学者として著名であり、豊富な臨床体験と東西文化の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築中。近著には『神話と日本人の心』(岩波書店)、『ココロの止まり木』(朝日新聞社)、『ケルト巡り』(NHK出版)奈良県在住

全体のレベルアップが感じられ、嬉しく思った
 今回も大賞がでず残念であったが、最終選考に残った四作は、いずれも読者を物語に引き込んでゆく筆力と構成力を持っており、その点で、全体のレベルアップが感じられて嬉しく思った。
 ファンタジーは、この世には実際起こり得ないことを書くのではあるが、人間の内的体験としてはあくまで「現実」なのである。そのような意味での「現実体験」に支えられていない物語は、つくり話になってしまう。今回の作品はいずれもファンタジーということに最初からこだわりすぎて、何か非現実的な物語を作らねばならないと、はなから頑張ったようなところがあるのが残念である。
 佳作の「観音行」は「人のために何とかしたいと願いつつ、自分は何をする力もない。」という点では、私がしている心理療法の仕事とまさにぴったりなので、共感をもって読んだ。そのような意味でこの結末もわかる気がする。それでもやはり「無為」の偉大さということがあって、私はもっぱらそれを頼りに仕事をしていると言えるのだが、「何もしない」ことは「何かをする」よりも、よほど素晴らしい結果を生みだすものである。このようなところが、納得のいく形で物語っていただければ有難かったと思う。「観音行」はこのような極めて意味あることだが、その意味を感じとるには、主人公の年令が少し小さすぎた感じもした。
 「同行二人」というのは日本人の心の奥にある宗教性と深く結びついているテーマである。これにかかわる深い内的体験のなかから、ファンタジーが生まれてくることを期待している。
 今回は奨励賞が二つあった。「冬の龍」はなかなか登場人物もよく描けているし、細部の描写もいいのだが、残念ながら、肝心の小槻二郎と龍がうまく描けていない。少年たち三人の物語を考えているうちに、たとえば、このなかのシゲルのことをほんとうに描くためには、何らかのファンタジーに頼らざるを得ないというところから、ファンタジーの世界へと進んでゆくようにすると、もっと立派な作品になったことだろう。
 「はざまの森」も、人間にとって極めて重要な「はざま」に注目したところは、大変おもしろい。特に現代人は能率や効率にとらわれて、「はざま」を無くしようと努力しすぎて、ぎすぎすした生活を送っているのだ。しかし「はざま」を描くための「鬼の世界」は、なかなか語るのが難しい。この点でもっと努力していただきたいと思った。
 「最後の手紙」の古市卓也さんは、応募を重ねているうちに、表現力や構成力が高まってきて、なかなかのものである。残念ながら、「子どもの目」から見た世界の把握という根本が欠けているので、単なる遊びの面白さになってしまっている。児童文学以外のジャンルに挑戦してみるのもいいのではなかろうか、と思う。
 昨年、今年と続いて、何だか大賞が生まれてくる胎動のようなものを感じた。実現を期して待っている。

斎藤 惇夫
選考副委員長
児童文学家/絵本・児童文学研究センター顧問
●長年福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわり、2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(アリス館牧新社:現在は岩波書店)で作家としてデビュー。
著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト) 埼玉県在住

「もしも…」
「観音行」
もしも観音を、普通の人、あるいはせめて修業僧にしたらこの物語はどうなっていたのだろうかと、幾度も思いました。木彫りの仏像が命を得て人として振る舞うのは、たしかに中世の説話には見受けられますが、あくまで信仰が背景にあり、しかも短編であるが故に、読んでいる間はホントノコトとして楽しめるのです。この物語の観音は、他の登場人物や歴史的な背景がリアリズムとして当たり前に描かれているために、次第に物語の中から浮いてしまい、ついには存在していること自体に無理が生じてしまいました。観音がこの物語の中で光彩を放つためには、命を得た観音を当たり前のこととして受け入れる、平安の、人の、それこそ信仰に至るまでの心の奥底を、ファンタジーとして描きださなくてはならなかったはずです。逆に、もしも観音を最初から人間にしたら、つまりリアリズムの作品にしたら、子どもたちのために、遠藤周作の『おバカさん』とか、ベルナノスの『田舎司祭の日記』のような、フツウの男が次第に聖性を帯びて輝きはじめる物語を語ることができたのではあるまいか、と、そんな風に思いました。

「冬の龍」
もしも、小槻二郎を欅の化身などにせずにあたりまえの人間として登場させ、東京の空に無理をして龍を飛ばせたりせずに、徹底したリアリズムで子どもたちのことを語ったならば、ファンタジーにはならなくともファンタスティクな物語にはなったのに、と残念に思いました。早稲田・高田の馬場近辺の雑然とした雰囲気が古い下宿屋を舞台にうまく描きだされ、主人公の少年(たち)が街への、歴史へのに、身近な人々への親密感を増していく姿と、それと同時に、下宿人たちそれぞれの生活が、独自な物語を持ちはじめる過程が自然によく捉えられ語られ、最後主人公と父親の関係の回復も心楽しいものでした。ユーモアもあり、描写は丁寧。物語作りもなかなかなものです。徹底してリアリズムで物語を語り、なお、それでも語り尽くせないものを発見したならば……、ファンタジーが誕生するのはそれからです。

「はざまの森」
ストーリーはよく考えられ、物語全体の構成も整い、不思議なことが起こりそうな気配も感じさせ、脇役としてのわが国の妖精たちもなかなか楽しく描けているのに、肝心のプロットが弱い。「根の国」「ハザマ」「この世」という、作者が描きだそうとした世界の構造の、とりわけ「根の国」が描かれていないために、そこに棲み「ハザマ」と「この世」を侵す鬼の姿と、逆に、その二つの世界を守るために祖母、咲、加奈子が人柱に選ばれた理由と、一体何を守ろうとしているのか、それがよく見えてこないからです。張りぼてファンタジー? いや、「この世」を映し出すために著者が見ようとした「根の国」と「ハザマ」は、どうやら著者が考えているよりも遥かに深みにあり捉えがたく、一度や二度挑んだくらいではほとんど姿を見せてくれないというところなのでしょう。ぜひ、再度の挑戦をお願いしたいと思います。もしも、著者が本当にファンタジーを必要としているならば!



工藤 直子
選考委員
詩人/絵本・児童文学研究センター顧問
● 詩・童話を中心にエッセイ・翻訳の分野でも活躍中。
著書『てつがくのライオン』(理論社)、『のはらうた�〜�』(童話屋)、『こどものころにみた空は』『象のブランコ−とうちゃんと』(ともに理論社)、『工藤直子詩集』(角川春樹事務所)、『ともだちは海のにおい』(理論社)、『クヌギおやじの百万年』(朝日出版社) 静岡県在住

さらなる挑戦を期待
 今回選考対象となった四編は、いずれも面白く、「読者」の感覚で読みました。と同時に、皆さんと同じ「書き手」の一人としても刺激を受け、(もし、この作品を自分が書いたのだったらどうするか)と、しきりに思って読んでいるのでした。
 書き手として、まず思ったのは、「ああ、ここからが本当の『スタート』じゃなかろうか。私なら、ここまで書き上げた後、もう一年位、手元に置いて心ゆくまで手を入れたいものだ。惜しいなあ」ということでした。
 もちろん皆さんは、「心ゆくまで手を入れた」あと応募されたのだと思います。しかし、自分ひとりの視点だと、手を入れる際に、どうしても書いている最中の自分の想いにとらわれ過ぎて、全体が見えない場合が多い。
 以前、選評で「書き手として夢中で書き、同時に読み手として醒めて読む」という作業を繰り返すことが必要だと書きましたが、これがなかなか難しい。言うは易く行うは難しで、私もいつもジタバタしています。
 そこで私は、信頼できる人(というか、忌憚のない意見を言ってくれる人)たちに読んでもらい、それらの意見を参考にして文を検討し、書き直すようにしています。
 自分とは違う視点で読み直すための、方法のひとつです。これは、文を書いて何十年もたった今も実行しています。それでもまだ、もどかしい思いが残るのですが……。
 その意味でも、ここに書かれた選者の方々の評は貴重な「他者の目」です。どうか、今回応募された作品を、そのまま放り出すことなく、選評を足がかりに見直してみてください。新しい作品に挑戦する前に、まず今回応募された作品を再度書き直すことで、得るものは多いと思います。
 「観音行」は、力強く読みごたえがありました。観音の言葉遣いを、独特の丁寧語にしたことも不思議なリアリティを醸し出しています。平将門という「有名人」は必要でしょうか。登場人物を絞って、それぞれの性格、持ち味を、より際だたせる工夫をしてみてはどうでしょう。
 「冬の龍」は、少年たちや、下宿の住人たちを描写する筆力が素晴らしい。特に、出だしの、主人公シゲルの登場のしかたは、わくわくしました。ケヤキの木の化身や、黒白の龍たちに関して説明的になって未消化ですね。ケヤキや龍が現れる動機を、読者にどう納得させられるかに焦点を合わせて書き込むことが鍵だと思いました。
 「はざまの森」の「はざま」世界は、この世の人間にとって、不思議な魅力と意味に満ちた世界で、そこを描き切れたら意欲的な作品になると思いました。日本独自の伝説や異界、そこに棲む物の怪たちが、次々に登場しますが、それらが「地図が描けるように」描写できれば、より迫力が出ると思いました。「最後の手紙」は、作者独自のユーモアがあり、物語も破綻なく進行して「書ける作者」だという手応えを感じます。「死神」が、重要な登場人物なので、「死」というものについての……特に作者自身の生死観についての考察があれば、そして子どもたちの共感を得るように描ければ、より深い作品になると思いました。(子ども時代にも、人はなんらかの「死」に対しての感慨を味わっているものです)

 どの作品にも共通して言えることは、「ファンタジー」というテーマに悩んで、そのために、むりやり「ファンタジー的」にした観があることです。…ほんとうに難しいテーマではあります。が、回を追うにつれて、再度応募する方が増え、質が向上していく気配を感じます。今後がますます楽しみで来年のさらなる挑戦を期待しています。
脇 明子
選考委員
評論家/翻訳家
●ノートルダム清心女子大学教授。大学で児童文学の講座を担当。
著書『ファンタジーの秘密』(沖積舎)、『おかぐら』(福音館書店)
訳書『不思議の国のアリス』(キャロル著)、『ムルガーのはるかな旅』(デ・ラ・メア著)、『ぐんぐんぐん』(マレット著)、『クリスマス・キャロル』(ディケンズ著)、『雪女 夏の日の夢』(ハーン著)ともに岩波書店  岡山県在住

六年前に設けた「奨励賞」に大賞へ続く手応えを感じた
 「観音行」の奥村さんと「最後の手紙」の古市さんは、ともに六年前の奨励賞受賞者である。私はそのときが選考委員としての初仕事だったが、どの作品も大賞や佳作には届かないということで、急遽、奨励賞を作っていただいたのが、強く印象に残っている。その古市さんが三年前に、そして今度は奥村さんが、佳作に値する作品を寄せてくださったのは、「奨励」に意味があったということで、大賞へと続く手応えを感じている。もうひとつうれしかったのは、今年の候補作の文章表現がどれもしっかりしていたことで、まずは楽しんで読むことができた。
 「観音行」は、平将門の乱に翻弄される少年少女を描いた歴史ファンタジーだが、木でできた観音像が焼かれたくない一心で動きだすというファンタジー的要素が、お話を進めるための便利な道具や、なくてもすむ飾りではなく、ちゃんと物語の魂になっていた。観音は愚直なまでに善良で、苦しんでいる者を見ると「お救いせねば」と言い出すのだが、特別な力があるわけではなく、結局、文句を言いながらも先に立って行動するのは、最初に道連れになった少年、六生である。観音は仏像だったときにも、祈られても何もできず、そのことを苦にしていたというのだが、問題だらけの世の中を「なんとかせねば」と感じはしても、実際には何もできないというのは、私たちみんなの心のなかにわだかまっていることだ。だったら、「なんとかせねば」は心のなかの頼りない観音の言うことだと思い、自分自身は六生のように憎まれ口をききながら、絞れる知恵は絞り、できることはするというのでいいんじゃないか。そう思えてくるところが、この作品の命だ。
 だがそれだけに、最後の皆殺しはどうかと思う。子どもたちの生き抜こうという努力を無にしないためにも、せめて中ぐらいのめでたさにはたどり着く努力をすべきではないか。年齢に応じた言動の描き方や、将門の乱とのからめ方など、まだまだ粗削りなところも少なくない。物語の魂はつかめたのだから、魂が隅々まで行き渡って物語が「これしかない」ものとして花開くまで、投げることなく磨いていってほしい。
 「冬の龍」は、舞台となる早稲田かいわいの空気といい、登場する人々といい、じつに自然に感じられて、おおいに期待したのだが、ファンタジーになったとたんに「なんでもあり」の薄っぺらな話になって、がっかりした。場所や人間がこれだけ書けるのだから、ターナーの『シェパートン大佐の時計』のようなリアリズム作品をめざしたほうが、ずっといいものになりそうだ。
 「はざまの森」も、昔ながらの田舎の家の様子など、なかなかよく書けているのだが、根の国から鬼たちが出てくるのを、人間の娘をカタシロにして封じなくてはならないという筋書きは、ファンタジーを書くためにとりあえず決めた課題としか見えなかった。「鬼は人間の心の闇にも住みつき、人の心を食って鬼に変えていく」とあるが、封印ができさえすれば、「人の心が鬼になる」心配は消えるのだろうか。根の国が死者の国だというのなら、餓鬼の姿をした鬼たちを邪悪なもの扱いするのは乱暴だ。「はざま」に住む妖怪たちは親しみ深くて悪くないが、人間が山にはいるから領分が減って困るというのもステレオタイプすぎる。結局主人公たちの叔母がかわりにカタシロになって問題が解決したあと、都会のクローゼットを座敷童子たちが訪ねてくるようになるが、そんなところに出没できるのなら、山が消えたって困りはすまい。第一、異界との通路は、特別な時にだけ開き、時がすぎたら閉じるべきものではないか。
 「最後の手紙」は、結構楽しんで読めたのだが、読み終えてから考えてみると、死に神の存在の仕方についてのルールにはやはり無理がありすぎる。全体がさらさらと薄味で、生と死を扱いながら、読んでいて感じるのは気のきいたユーモアの心地よさばかりというのも物足りなかった。

藤田 のぼる
選考委員
(社)日本児童文学者協会 事務局長
●児童文学の評論と創作の両面で活躍中。
評論『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂) 埼玉県在住

書きたい世界をシンプルに
 今回から選考に加えさせていただくことになり、いささか緊張して選考に臨んだ。これまでこのファンタジー大賞を「外野」から見ていて、敷居の高さというか、他の公募の賞に比べてもそう簡単に大賞は出さないところだな、という印象を持っていた。結局のところ今回も大賞は出なかったわけだが、実際に選考に加わってみると、殊更に敷居を高くしている感じはまったくなく、むしろ、応募者の側がファンタジー大賞の「傾向と対策」を意識し過ぎというか、肩に力が入り過ぎているのでは、という風にも思った。
 というのは、今回の最終候補作品はそれぞれに個性的でおもしろかったのだが、まず感じたのは、作品が全体に長いということ。(あるいは、長さを生かしてないともいえるが。)これだけの長さでなくても充分に書けるのに、なにか無理やり「大長編」にしなければという思い込みにとらわれている気がした。それぞれの作品世界にふさわしい「量」ということにもっと目を向けてほしいと思う。
 もう一つ感じたのは、これもまたなにか必死に「ファンタジー」にしなくては、という無理やりさで、ファンタジーという表現方法に作品が支えられているというよりも、せっかくの作品世界がむしろファンタジーにしようとするところから壊れてしまっている、という感じを受けた。いまやファンタジーというのはなんでもありだと思うし、狭い意味でのファンタジーという手法に捕らわれることなく、まずは書きたい世界をシンプルに書いていく、(それが難しいことは百も承知だが)ということを心がけてほしいと、切に思った。
 具体的には、僕が一番惹かれたのは「冬の龍」だった。東京・早稲田の街を舞台に、まずなによりも少年たちの像が生きている。思春期の入り口といえる六年生の男の子たちの、まだ少し無邪気な部分と、人間や社会の裏表が少しずつ見えてきたあたりの姿が、三人組それぞれに造型されていて、これだけでも貴重な才能だと思った。それだけにファンタジーの仕掛けの部分の薄っぺらさが目立ってしまい、なんとも残念だった。龍やら鬼やらが実際に登場せずとも、わたしたちが住む町の、壁ひとつ隔てた世界に、事実とも虚構ともつかないさまざまな「物語」が秘められ、隠されていることに、少年たちが少しずつ近づいていく、というような、現代の都市伝説少年版といった物語が想定されるならば、この作品はそれこそ新たなファンタジーに結実するのではないだろうか。
 「観音行」は、不思議な魅力を湛えた作品だった。ただ、本格的な歴史ものとしては、登場人物の造型や舞台の描き方などが物足りず、作品として本格歴史ファンタジーを目指すのか、それともむしろある種劇画調になってもいいから観音のキャラクターを中心としたエンターテインメントの方向を目指すのかの「見切り」が必要だと思った。そして、僕はこの作品から手塚治虫の「どろろ」を思い出したこともあり、後者の路線により可能性を感じた。木彫りの観音という存在の、人間との異質さをよりくっきりさせていく中で、時代の中で苦悩する人間の姿が逆に照射されていくような作品世界が展開されていったなら、これもまたこれまで読んだことのないファンタジーになっていくのではないか。
 「最後の手紙」は、やはり冗長に過ぎると思った。後半位になってようやくストーリーが動き出した感じだった。ただ、台詞も含め、演劇的なおもしろさを感じるところが随所にあり、そうした点をもっと生かせないだろうかと思った。選考委員会では、「死」というテーマをあまりに安易に扱っているのではといった意見も出されたが、かといって、それでは死という問題について充分思索を深めた上で書こう、という話ではないと思う。作者が書きながら自己との対話を深めていけるような作品世界の枠組みをどう見出せるか、という問題だろうと思う。僕はこの作品などは戯曲の形にしたらどうなのだろう、とも思った。
 「はざまの森」は、作品の設定や枠組みのところで、これまでに書かれてきた作品を思い出させてしまうところがいろいろあり、それを超える、あるいはなにかをつけ加えるだけのオリジナリティーを感じることができなかった。ことに、二十年前、三十年前と違い、今おとなの文学でもすぐれたファンタジーがさまざまに書かれていることでもあり、ファンタジー世界の形式、枠組みということと同時に、あるいはそれ以上に、登場人物の子どもたちが生きていく上での「課題」に、もっともっと迫ってほしいと思った。
 最初にも書いたが、「ファンタジー大賞」ではあるが、ファンタジーという形式自体が自己目的化されるのではなくて、もっとも自由な表現が許される場として、現代の子どもたちのさまざまな姿、思いに迫ってほしい。

中澤 千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。
著書『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)。現在『日刊サッポロ』(月曜日発売号)に「続・銀幕の中の北海道」を連載中。小樽市在住

作品のレベルが全体として確実に上昇
 まず、三本も賞が出たことを喜びたいと思います。応募作品のレベルが全体として確実に上昇してきていますので、近いうちにより大きな実りが期待できそうです。
 奥村敏明さんの「観音行」。第四回の奨励賞「あかねさす入り日の国の物語」からのステップアップを読む前から予感させました。タイトルがすっきりとしたからです。「「ちっ。しけてやがる」/六生は、黒く焼けこげた柱をけとばした」という冒頭の二行からぐいぐいと読み手を引き込みます。ストーリー・テラーとしての腕をあげましたね、
奥村さん。いざという時に力を発揮できない観音が、とても素敵でいとおしくなります。ちょっと、大相撲の高見盛が負けた時の情けなさそうな表情を思い浮かべてしまいます。最後の最後にはなんとか観音力を発揮してくれるのではという期待も裏切られます。でも、その裏切りはなんとも心地よいものでした。思いどおりにならないからこそ、希望も残るということもあります。
 藤江じゅんさんの「冬の龍」。選考会ではもう一息というか、一声あれば佳作受賞という雰囲気でした。そのもう一声を河合委員長に振られた私の反対で奨励賞にとどまったのかもしれません。ごめんなさい、藤江さん。ファンタジー部分がうまく機能しているかはともかく、作品として高く評価する意見は多かったのです。でも、小説の文体としてはどうも説明が勝っているように思われます。藤江さんの知識のなせるところなのでしょう。導入部分のくどさに、それがよく現れています。「〜である」という断定的な語りの多用も、物語のリズムを削いでしまうのではないでしょうか。龍という大仕掛けが本当に必要なのか、すんなりと腑には落ちませんでした。父親がシゲルを九月館に預けている理由も弱いように思えます。とはいえ、とても気持ちのいい作品であることは確かです。何より早稲田界隈の土地勘やシゲルの思いが生きいきと描かれています。マウンテンバイクの値段が下がるのをどきどきしながら待っているシゲルがとてもいいですね。
 本城和子さんの「はざまの森」。とても上手でそつのない作品です。とはいえ、鍵をあければそこに「はざまの森」という異世界=妖怪博物館があって、型どおりにはめ込まれてしまうという不満から解き放たれることはありませんでした。
 古市卓也さんの「最後の手紙」。候補作の中で唯一賞を逸しましたが、それは、既に佳作を受けている古市さんには高いハードルが要求されているからです。私は四作中この作品を最も高く評価しますが、全体の賛同を得るに至りませんでした。遊びのセンスがひとりよがりと受け取られる危険と背中あわせだということです。でも、細部に見られる言葉の感覚やリズムの素晴らしさは古市さんの真骨頂ですから自信を失わないで下さい。死を正面から、しかもユーモラスに扱っていることはおおいに評価できますが、思弁的とも取られかねません。おそらくは誰の心の中にもある許すべきこと、許すべき人への思いが呼び起こされることに私は打たれました。最後の手紙を書いたのが、死に神なのか、はたまた全てトミさんの頭の中、夢の中の出来事なのか。物語の流れの中に今立ちあっているまさにその時にだけ、本当のことは現出するという思想はなかなかに難しく伝わりにくいものです。

工藤 左千夫
選考委員会代表幹事
絵本・児童文学研究センター理事長
●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平
成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』(岩波書店 河合隼雄共著) 小樽市在住

作品の意図を真摯に考察すべきである
 児童文学ファンタジー大賞も今回で十回目を迎える。十年一昔と言うが、過ぎてしまえば実に早い。今回の選考会にも加わり、各選考委員の意見を聞きつつも、「十回目か!」と、感傷に浸ってしまった。この間、多くの方々の協力と経緯が走馬灯のように頭をよぎる。選考委員の一人として、それではいけないと思いつつも選考会の時間だけは確実に流れていた。
 さて、今回の選後評であるが、各選考委員が詳細に述べているので、簡潔に述べたいと思う。
「観音行」
 作者は第四回の奨励賞を受賞した奥村さんである。当時の作品に比して、ようやく児童文学の書き手になった観がある。本作品は、歴史児童文学である。その筆致は平塚武治の名作『馬ぬすびと』に近づいていると思われるが、残念なことに全体の構想力ではかなりの開きがある。それは歴史上の人物を作品でどのように生かすか、その人物と主人公の必然的なかかわりはどうか、という難題が本作品では曖昧なため随所で物語に無理が生じてしまった。しかし、とにかく佳作受賞を祝いたい。
「冬の龍」
 今回の作品群ではディテールが最も巧み。残念なのはファンタジーに入ると作者の長所が狂いだすことである。次作を大いに期待したい。
「はざまの森」
 「はざま」という発想は面白い。しかし、発想以上の作品? となると疑問が湧く。選考会では、本作品が奨励賞に相当するか否かで、多少、もめたことだけは付記したい。

 ファンタジーの非日常へのツールは重要である。古典的ではあるが、主人公が日常から非日常に向かうツールは「地続き」と「魔法的手段」の二通りがある。それらのツールを使用することの意味は極めて大きい。応募者はその違いとそこで生じる作品の意図を真摯に考察すべきである。そのことがファンタジーの本質的な把握につながり、結果としてリアリズムに根ざした真のファンタジー文学が生まれてくるはずである。その可能性にかけて十年の労力があった。主催者の願いは単純至極なのである。