ドーンDAWN8号


2000年11月12日発行
勝谷 明子(ペンネーム森谷 桂子)
略歴
 1961年生まれ 38歳 秦野市在住
 1984年 早稲田大学第一文学部卒業
 1984年 図書館勤務

「海のかなた」 
400字原稿用紙換算枚数446枚
奨励賞「海のかなた」勝谷 明子

▼受賞者コメント
 後悔は応募原稿を投函したとたんに始まりました。それまでは自分の持てる限りの想像力を傾けて書き上げたつもりだったのに、その瞬間から自分がうみだした登場人物たちがわたしを不満げに責めたて始めたのです。
 コレジャ書キ足リナイ、整理不足デ余計ナコトバカリ多イ、ワタシタチニハマダマダシタイコトガアッタノニ、コンナ中途半端ナ作品ニシカシテモラエナカッタと。この半年、彼らは亡霊のようにわたしにつきまとい、折あらば意識の表層にのぼってきては、わたしに恥ずかしさのあまりの冷や汗をかかせ、安眠を妨害し、赤面させてきました。
 これはわたしのさまざまな記憶の断片から浮かんできた物語です。
 以前、5月の丹波地方を旅した時に目にした木々の緑は、あざやかな若葉の背景に植樹された杉のくすんだ色が広がったものでした。その時にふと人間が存在しない地球の情景を目に浮かべたら、そのきれいさにためいきが出てきました。見渡すかぎり一面に初々しい淡い緑が生を謳歌する光景。よそよそしいどんな金属的な光も人工的な直線も不自然で画一的な常緑樹もなく、ただ野放図で完璧でたけだけしい若緑の塊だけがこの世にある姿。 
 それからメアリー・ノートンの『空をとぶ小人たち』(岩波書店)の最後に近いあたり、父のポッドが「だれでもそのつもりがなくてもひどいことをしでかしてしまう」という意味のことを言うくだり。11歳のわたしにはなんとこわく、重い響きの言葉だったことか。 
 さらにわたしが母親となって初めて子どもを外に連れ出した時の驚き。気がつけばわたしは一粒の雨が我が子のほほにあたるのも気に病み、横を通る自転車の兄ちゃんを、この子に指一本ふれてもただじゃおかないとばかりににらみつけていました。それまではあたりの様子がどんなであろうと気にもとめなかったのに。あの頃新米の母親は子どもをかばおうとずっと不器用な姿勢を続けていて、肩こりに悩まされどおしでした。母親とはこんなにうっとおしく暑苦しいものか、だがこの暑苦しさに守られるから何もできない赤ん坊も無事に育つのだと妙に納得したものでした。
 人間が人間であるためにこの世界にまきおこる、小は石ころひとつの位置のずれから大は限りなく広範囲の環境の激変までの、ありとあらゆる波紋。それは人間の生の副産物、いえ、生そのものであるという、そのこわさとおもしろさとすばらしさ。言葉と知恵(それなりの)を持ってしまった人間は宇宙をどう変えてしまったのか。本当はそんなことを書きたかったのです。身の程知らずにも。
 今回、この未完成な作品に奨励賞をいただけたのは、出来はともかく方向性はおもしろそうだとご評価いただけたのかと、勝手に都合よく勇気づけられています。あいかわらず亡霊たちはうろついていますが、審査員の先生方にもう一度書き直す気力を与えていただきました。本当にありがとうございます。
河合 隼雄
 選考委員長
 国際日本文化研究センター所長・京都大学名誉教授
絵本・児童文学研究センター名誉会長・臨床心理学者
●世界的な臨床心理学者として著名であり、著書も多数。岩波書店より著作集全14巻。豊富な臨床体験と東西文化の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築中。
奈良市在住
 
ファンタジーを完成させるためには終りを急いではならない

 今年こそはと期待したが、大賞も佳作も該当作がなく非常に残念であった。今年は196も応募作があり、それだけファンタジーに対する一般の関心も高くなったと嬉しく思うが、このような一般化と共にファンタジーに対する誤解も生じてきていると思う。
 ファンタジーはこれまでも繰り返し述べてきたように、単に頭の遊びとしてつくり出すものではない。自分の心の深くに、どうしても表現したいことがあって、それを他に示すためにはファンタジーという形をとる他はない、というところから生まれてくるものである。そこには生みの苦しみが伴なうはずである。このことを忘れないで欲しい。
 今回、奨励賞を受ける森谷桂子さんの「海のかなた」について考えたことを述べてみたい。神と、半神半人と、人間と、という興味深い構成メンバーのなかでドラマが展開してゆく。私は最近アメリカ先住民の生き方に関心をもち、ナヴァホ族の人たちを訪ねてきた。この人たちは本来狩猟採集民で、その生き方はまさに自然と共存する生き方である。それに比して、現代人はあまりにも自然と切れた存在になり、そのために多くの心の問題が今生じてきていると思う。その点について反省するために、自然と共存している人たちの生き方が参考になるのだが、だからと言ってわれわれはそれと同じように生きていけない。現代の文明を享受しつつ、自然とのつながりを回復するにはどうすればよいか、という課題は、われわれにとって非常に重要である。
 この作品で常世に住んでいる神は、まさに自然と共存している。そこに、人間の主人公、サチが登場する。当然に生じてくる葛藤はどのように解決されるのか。サチが農耕をはじめるのも面白い。農耕は人類が自然との共存ではなく、自然を少しでもコントロールしようとするはじまりだからである。
 このような文明の「はじまり」のときを問題にする上で、神話を取りこもうとしているのも卓見だと思う。ところが非常に残念なことに神話の読みが深まっていず、神話を踏まえて話が展開するのではなく、神話をもじって話がすすんでゆく。あるいは、神々の名を借りただけではないかとさえ感じられるのだ。もちろん、神話のとおりに話を展開する必要はない。しかし、せっかく神々の物語を取りこもうとするのなら、神話のもつ簡潔にして骨太な語りの本質を無視してしまうのは残念なことである。
 このために前半にもった期待が後半で裏切られてしまう。ファンタジーを完成するためには終りを急いではならない。葛藤を保持したままで耐えていると、解答がはっと湧いてくる。そこまで待って仕上げるのでなければ、何となく御都合主義的と感じさせるような終りになってしまうのだ。
 森谷さんはまだまだ成長する可能性を持った方であると思うので、焦らずにじっくりと課題に取り組んでの捲土重来を期待したい。ただ、くれぐれも急がないように。
 藤原あずみさんの「銀の弓矢」も可能性を感じさせる作品であった。民話を踏まえ、アイヌのことを取りあげた点に関心をもった。せっかくアイヌの側からの視点も入れながら、最後のところでは八面大王が「退治」される感じになっているところが残念である。大王は最後は殺されることになるにしろ大王の側からの見方も保持し続けることが必要だったと思う。そうすると、物語の深さがもっと増したことだろう。アイラプが大王の子どもを生むことによって、その血が引き継がれる結末はいいなと思ったのだが。
 藤原さんも将来が期待される方である。再度の挑戦を期している。
 来年こそは、大賞受賞者の出ることを願いつつ……。
今江 祥智
 選考委員
 児童文学者
●中学教員後福音館書店など多くの出版社で編集者を経験。その後、聖母女学院短期大学で教授として13年間、児童文学を講義する。
主著『ぼんぼん』四部作(理論社)『今江祥智の本』全36巻(理論社)ほか多数。
京都市在住

 さよならの選評

 この30年ばかりの間に、私はいくつかの新人賞的な賞の選考委員をしてきて、何人もの新しい書き手と出会ってきた。一方で、15年ばかり編集の仕事をしてきた季刊誌「飛ぶ教室」(光村図書)という「場」があったことが倖いした。受賞者には、そこに何作も書いてもらえた。実験も冒険も出来たし、読んでもらえたし、批評もしてもらえた。雑誌は畑のようなもので、苗はここで一人前になっていける。
 その点、応募作から選ぶ―というかたちの「場」だけでは、本当に力もあり持続力もある新人と出会えることは難しいものだ。
 この賞もまだ若い。そんなにすんなりと、あっというような書き手と出会えるとは思っていなかった。それで石の上にも3年―である。一人くらいは―と秘かに期待していたが、やっぱりむなしい願いになってみて、やはり文学の世界は厄介なものだと改めて実感している。
 今回の3作も、どこか勘ちがいされているふしがある。文学とは程遠いところで力んでおられるところがある。
 一日に一作かけて読み、一拍置いてもう一度読んで、すっかり疲れてしまった。長くても難解でも、新しいものとめぐりあえた喜び、読み終ったあとの心地よい疲労感とは程遠い。しばらく文章が書けなくなってしまった。
 下読みの人たちのご苦労を思ってしまう。
 大仰だったりゲーム感覚だったり漫画的だったり妙に美文だったり冗舌すぎたり説明的しすぎたりで―、いやシンドイものだった。自分で買ってきた本なら、さっさと投げだせばよろしいが、これはとにかくおしまいまで読まねばならぬ。苦痛だった。
 それでも、元編集者だった私は、一萬分の一の僥倖をあてにして読んでいった……。
 今回は個人的な事情から選考会に出られず、かわりに選評を12枚ばかり書いた。言いたいことはそれに盡きているし、今一度繰返したくない。
 部落解放文学賞の選考委員を20年以上続けていて、そこでもいつも書くことだが、すぐれた子供の本の古典や現代の作品をできるだけ読んでほしい。そして自分の書くものの「ハードル」の高さを上げていってほしい。それでも跳びたければ、それを軽やかに越えるものを書くことで挑んでほしい……。
 ファンタジー文学。ファンタジーは文学なんだということを出発的にしてほしい。
 東晋の歴史家、干宝さんの『捜神記』(竹田晃 訳/平凡社)あたりを読まれても、フランスはレイモン・クノーさんの『文体練習』(朝比奈弘治 訳/朝日出版社)あたりをひもとかれてもよろしいから、とにかく助走のところからもう一度始められては如何? 
 いわんや、子供の本の世界には、絵本からシリーズものまで、「ファンタジーの種子(たね)」はどっさり埋まっている。洋の東西を問わず、まず自分の目で確かめ、その上で、まだ書きたかったら、どうぞしっかり書いて下さい。
 
阪田 寛夫
 選考委員
 小説家・詩人・放送作家
●1975年『土の器』で第72回芥川賞受賞。児童文学関係では1974年『うたえばんばん』で第4回日本童謡賞受賞、1976年『サッちゃん』で第6回日本童謡賞受賞。1980年『トラジイちゃんの冒険』で野間児童文芸賞、同年『夕方の匂い』にて第1回赤い靴児童文化大賞受賞。
東京都在住

何年かかっても、何かがひらめく日を待ってくださるといい。

 読んだ順番に申し上げます。
 「銀の弓矢」
 長野県南安曇郡出身の作者は、筆名に故郷の地名を使い、この話もその地に伝わる民話をモチーフにしたと梗概にあります。子どもの時に聞いて育った鬼退治の話が、いつのまにか重税から民衆を守った英雄譚に変っていて驚いたという作者は、エミシとはアイヌではないかという説を援用して新しく第三の物語を作りました。
 幼い頃から身にしみこんでいる話ですから、作者が自分以外には書けない作品として書かずにおられなかったとすれば、それは文学作品を書く第一の条件をみたしています。
 実際に読んでみると、右の素材を組み立てるのに、民族の戦いと、個人の愛との対立でくくって抑えこもうと力を尽くされた様子が見えました。終りよければすべてよし、という気持ちで読み終えましたが、振り返って考えると、人物たちを都合のいい解釈で捌いた感じが否めません。ファンタジーを手先で作る傾向についての河合隼雄氏のご心配が思い合わされます。ここはもう一度白紙にもどして、何年かかっても、何かがひらめく日を待って下さるといいと思いました。本当に書きたければ、の話ですが。
 「銀の杖」
 地の文章に誤字や誤用が多いのに、450枚をともかく読ませた力は何だろう、と考えました。
 よく見ると、セリフ及び劇的な叙述と、それらを運び説明する文章との間に、精度の差がありすぎるようです。もしかして、これがマンガ(といってよいかどうか)の台本、というものかしら、と物識らずの老人はひそかに呟いた次第です。間違っていたらおゆるし下さい。その作者が作品の末尾あたりに数箇所、朗々と哲学的な総括をうたい上げている。私など老眼鏡をかけ直して何度も読み返さないと意味がなぞれないのですが、それなりに読者を恐れ入らせる迫力はあります。やっぱり若い人たちに油断はできん、としみじみ思いました。
 「海のかなた」
 少年少女に向けて書くのがふさわしいような詩情が、文章の細部に出ています。その文体で日本の神話を新しく構成して、人物や事件をふくらませて行く前半は成功しています。
 願わくは、このまま最後までもってほしいと願いましたが、前半に仕掛けた大道具小道具、人間関係、あるいは神々の系譜や能力が、一斉に変動開花すべき後半の嵐あたりで、突然スケールが小さくなりテレビニュースの画面を見ている気分になりました。
 「一斉に変動開花すべき」などと無責任に願った方が甘い、と作者からお叱りを受けそうだと反省して読み終えました。
 3人の30歳から40歳までの若い女性が、それぞれ異なる世界や世界観を、力一杯見せて下さったことを感謝しています。
脇 明子 
 選考委員
 評論家・翻訳家
●ノートルダム清心女子大学教授。大学で児童文学の講座を担当。
著書『ファンタジーの秘密』(沖積舎)『おかぐら』(福音館書店)
訳書『不思議の国のアリス』(キャロル著 岩波書店)『ムルガーのはるかな旅』(デ・ラ・メア著 岩波書店)
岡山市在住

本質的な問題に正面から取り組めるというのもファンタジー文学のすばらしさのひとつ。

 昔、私が、マクドナルドやデ・ラ・メアなどのファンタジー作品を取り上げて、その不思議さの秘密を解き明かそうと四苦八苦していたころ、ファンタジーと言ってぱっとわかってくれる人は、まだ少なかった。ところがいまでは、いたるところにファンタジーという言葉がちりばめられ、書店へ行けば魔法使いや魔女の物語がずらりと平積みにされているほどだ。だが、お決まりの小道具やプロットを巧みに組み合わせた物語の数々は、暇つぶし用の「おもしろさ」には事欠かなくても、「人間」と出会った喜びや、その作者の目を借りてしか見えない世界を旅した酩酊感を与えてはくれず、読むほどに心が冷えていくばかりだ。
 だが、いま歓迎されている「ファンタジー」がそういうものだとすれば、「銀の杖」などはまずまずの出来と言うべきかもしれない。偉大な魔法使いの息子でありながら魔法の素質を持たない主人公が、期待の重圧に負けて父親を破滅させるという成り行きは、現代の子どもたちにとっては身につまされるものだろうし、そのあと不思議な力を持つ三重苦の娘と出会って、「死の王」に脅かされた世界を救うまでの展開も、一応こぎれいにまとまっている。しかし、肝心のファンタジーとしての仕掛けや見せ場は、どれもこれも『ゲド戦記』からの借りものだらけで、その場その場は結構もっともらしくても、全体として見えてくる世界はひどく薄っぺらなものでしかない。また、間違いの多い日本語表現以上に気になるのが、地名、人名、色彩などの選択で、世界をまるごと創造しようと企てるなら、そうした細部の象徴的な働きにまで気を配ることを怠ってはなるまい。もっとも、その世界が本当に自分のものとして「見えて」いれば、名前も色も風景も、最初から「それしかない」ものとして、自然に浮かんでくるのだろうが。
 その点「銀の弓矢」は、平安初期の信濃という実在の世界を舞台にしているので、多少の時代錯誤はあっても、そこここに素直なリアリティが感じられるのが強みである。だが、和人に家族を虐殺されたエミシの少女を主人公とするこの物語には、ファンタジーと言えるか否かを問う以前に、構造上の致命的な欠陥がある。東北から信濃に来て和人の一家に救われた少女は、近くの山に立てこもるエミシたちと坂上田村麻呂の率いる討伐軍との戦いに巻き込まれていくのだが、彼女を主人公とするかぎり、たとえ敗北に終わろうとも、物語の軸はエミシの側にないとおかしい。ところがこの作品の主軸となるのは、田村麻呂が観音さまのお告げで手に入れた矢でエミシの首領を討つという、まったく筋違いの「物語」であり、題名もそれに因っている。そこにさらに、その矢に使う尾羽を持った山鳥が人間の妻になっているという「鶴女房」風の話がからむのだが、その山鳥に尾羽を差し出せと迫るのが、戦いで山を焼かれるのを恐れる山の神だというのも納得しがたい。この山の神とエミシたちのカムイと観音さまとは、いったいどんな関係にあるというのだろう。
 「海のかなた」は、神話との重ね合わせに無理があり、登場人物がまぎらわしすぎる上に、後半が地震と台風の大パニックでぐちゃぐちゃになってしまいはするが、南の島の楽園である「常世」とそこに生きる半神たちの姿が鮮やかで、なんとか設定を整理し直してこの世界を活かせないものかと、ついつい考え込んでしまったほどだ。人間が楽園にも満足せずに世界を変えたがることの問題を取り上げているのも、理屈に走りすぎのきらいもあるが、基本的には評価できる。テーマなどないファンタジーもいいものだが、本質的な問題に正面から取り組めるというのも、ファンタジー文学のすばらしさのひとつだからだ。しかしこのままでは、意欲あふれる失敗作としか言いようがない。じっくりと時間をかけて、神話の世界と自分の物語世界とを丹念にすりあわせ、おおらかなファンタジー作品へと育てていってほしい。
中澤千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学教授
絵本・児童文学研究センター評議員
●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書房)など。近著は『女優・吉永小百合』(共著・プラトーン出版)。現在『週間・読書北海道メール版』(http://www.dokusho.co.jp/)に「子どもの文化と本」を連載中。小樽市在住。

自分の興味に従って、もっともっと自由に読むことだ。

 正直なところ、今回は気が重かった。積極的に推したい作品が最終的になかったということだ。
 藤原あずみ「銀の弓矢ー八面大王伝説ー」は、近年めずらしい手書きの原稿。きわめて丁寧に浄書されていた。それ自体は当然の心がまえとはいい条、不注意なワープロ変換ミスなどがあまりにも目だつ中で、細やかな神経には好感を抱いた。エミシの側にも和人の側にも片よらないフラットな視点は、工夫でもあるのだろうが、読み手の感情移入に困難を生じさせることになった。三十三斑の山鳥の尾羽によって作られた銀の矢によって八面大王を討つという展開が、イメルを敵役にしてしまった。「八面大王伝説」という副題を持つにもかかわらず、大王が退治されたという印象は否めず、大王イメルの魅力を尽くすに至らなかった。それはひとえに、視点を両方に置いてしまったがためである。例えば、ケヴィン・コスナー監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990年)が、ネイティヴ・アメリカンの視点に立つことによって、それまでの西部劇を相対化してみせたような新味を出す可能性のある素材だけに残念であった。
 木村安里「銀の杖」は、物語のスケールが大きく、魔力を持たないカイの悲しみがよく描かれている。開巻早々カイが「《試みの門》」に拒まれ、読者がぐっと引き込まれていくことになる。とはいえ、この作品にはそれらの美点を殺ぐ大きな瑕疵がいくつもある。まず、書き出し。冒頭は物語の命である。これを暦の説明で始めるのはどういうものか。必要なところに挿入すべきだろう。説明が過多で描写が少ないのは、作者に余裕がないということ。設定に不自然な点が目立ち、言葉が大げさである。何よりも、最大の欠点は日本語そのもの。細かな誤りがあまりにも多い。必ずといっていいほど、各ページに複数の疑問点があった。ワープロ変換ミスにとどまらず、「てにをは」の間違い、主語述語の不照応、言葉の覚え違いや誤用など。神経の細やかさが感じられないのは「銀の弓矢」と対照的。読み手がここでつまづいてしまえば、せっかくの物語のスケールに入っていけなくなる。失礼なものいいになってしまうが、これは注意すれば直るというものではなく、作者の言語感覚そのものの問題のような気がする。難しい表現をする一方で、根本が出来ていない。きわめていびつな印象を受けた。
 森谷桂子「海のかなた」は、日本神話に材を取る。素直な行文に好感を持ったが、展開がまどろっこしく冗長。もっと短くできるのではないか。サチのジジに対する言葉遣いは年長者に対するものとして不自然であり、一部文章のアラも気になった。作者は第二回に「鶴の天衣」で最終選考に残っているが、その「鶴女房」にしろ、今回の日本神話にしろ素材はもっともっと消化して自家薬籠中の物としなければいけない。それにはとにかく読むことだ。
 文章には持って生まれたセンスというものがあるので、越えられない一線はある。しかし、誰だってある段階までは行けるのだ。読めば書ける。自分なりに読んで読んで読み込んでいけばいいのだ。話はおおげさになるが、ここ10年の間に急激に大学生の日本語能力が低下してきたことが気になる。読んでいないからだと思う。読むといっても、作者は何をいいたいのかとか、主人公の気持ちはなどといった作文教育ふうの類型的な読みはもう捨ててもらいたい。自分の興味に従って、もっともっと自由に読むことだ。それが、それのみが書くことの肥やしになる。
 前回までの奨励賞受賞者三人が、三次まで残ったものの最終選考には進めなかった。小林栗奈は二作応募。器用にこなせることそれ自体が、ファンタジーを軽く考えている証左に思えてしまう。百年後を描いた「歌う琴」の想像力の貧困さに辟易し、「翼」の少女漫画ふう仕たてに疲れた。佐々木拓哉・智子「風よ時を越えて」は、するりと読めた。だが、父親の単身赴任の主要因が息子の進学問題といったこの家族の危機がいかにも浅く、タイムスリップもお手軽に過ぎる。古市卓也「本の中の空」の可能性を、私は高く買う。細部で読ませるセンスは抜群で、物語の作られ方そのものというか、詩人の悲しみを物語化したメタフィクショナルの試みが意欲的。それが言葉の本質に触れていく。ただ、規定を大きく越える枚数だったことも災いしてか、他の三次選考委員からの賛意は得られなかった。
工藤 左千夫
 選考委員会代表幹事
 絵本・児童文学研究センター理事長
●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。現在、会員数は全国で1000名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。

優れた作家ほど「わたしの作品は最高!」という世界からはほど遠い。

 本年は昨年の応募数に比して10作以上増えた。主催者としては嬉しい限りである。しかし、創作の世界だけは量の多さが質の向上を促す因とはなりえない。
 第1回目は大賞に『裏庭』梨木香歩(理論社より刊行)、佳作として『タートル・ストーリー』樋口千重子(理論社より刊行)。第2回目は佳作に「なるかみ」伊藤 遊。第3回目は大賞として『鬼の橋』伊藤 遊(福音館書店より刊行)を選出した。どれも秀作ばかり。選考委員の一人として意気があがり続けた。
 ここ3回(第4回〜第6回)は下降の一途。大賞や佳作の域に達しなくても、書き手の努力と今後の期待を込めて奨励賞を追加したのは第4回目である。しかし、その奨励賞も曲がり角に来ている。奨励賞は佳作より数段下。大賞と佳作の差異も隔絶している。それだけの“格差"は確実。しかるに、奨励賞受賞者の作品が一向によくならない。むしろ、応募のたびに作家としての非力を暴露している。どこかのプロットを拝借したような「軽い」タイムファンタジーや、確信犯的に公募枚数の規定を破る。しかし、規定を超えてまで書き上げる力量はない。ディテールにはたまにはっとさせられるが全体の構成としては完全に破綻。とにかく公募を軽く考えているとしか思えない。自分の作品を文学として高めていく姿勢がないのか、奨励賞程度で慢心しているのか・・・・・・?
「書いて書いて書きまくった。書き方がわかるまで書いた。」この言葉は『ゲド戦記』の作者アーシュラ・k・ル・グインのそれである。書き続けることによって自己の内面を照射し、そこでの深い想いこそファンタジーにとどまらず総ての芸術に共通なものである。作品の「格」とはそこから生じる。今江委員が述べているように文学以前の文章があまりに多い。
 一つだけ確認しておきたいのは、公募での作品評価は他者(選考委員)によって決まる。書き手がいかに自分の作品に入れ込み「わたしの作品は最高!」と思っていても何の意味もない。ここに公募選考の厳しさがある。「選考委員に合わせて」と言っているのではない。優れた作家ほど「わたしの作品は最高!」という世界からはほど遠い。「まだまだ」と思っているから書ける。書くことに謙虚なのである。一流と三流の差異とはこのようなもの。ついでに三流は書くことによって「人を変えてやろう」と意気込み、一流は「書くことによって自分を生き直そう」と考える。どちらに立脚するかは個々人の問題である。
 本賞は、公募の準備から締切り、そして予備選考・一次選考・二次選考・三次選考会、さらに最終選考会と10カ月にわたってその年度を締める。その期間、多くの人々の労力や経費は計り知れない。労力は秀作に恵まれてこそ報われる。
 選評については各委員によって出尽くしているのであえて「愚痴」を言わせていただいた。