ドーンDAWN7号


奨励賞「ダックスフント・ビスケット」小林 栗奈

▼受賞コメント
 愛犬のベルが死んだのは5年前でした。気持ちの整理をつけたくて、この1年で、彼女をテーマにした作品を2つ書きました。その1つが「ダックスフント・ビスケット」です。「百年眠って過ごしたい」と愚痴をこぼしていたのは私だし、そんな私に力をくれたのはベルでした。できあがった作品が、幼くてたわいない物語になったことに驚いたのは、誰よりも私自身でした。それまで私が書こうとあがいていたのは、見知らぬ想像の世界で数多の人が生き死に、時が流れていくような「大作」だったのです。
 壮大なファンタジーを書きたいという欲求は、今も私の胸にあります。自分の作り出した世界で、思い通りに人間を動かしたいという野心も。けれど、想いがあってもそれを表現できる力がなければ、まだ書いてはいけないのかもしれないと、この頃思うのです。人は身の丈に合った物語しか書くことはできないのだと。
 歳をとれば精神的に成長すると思っていたのは、10代の私です。年齢を重ねれば良い作品が書けるようになると漠然と考えていたけれど、二十代も終わりに近づけば、それは幻想だといい加減に気づきます。毎年、最終選考の選評を読むたびに、候補者のみなさんに比べて自分の甘さや浅さを思い知らされ、落ち込みました。それは年齢ではなくて、どれだけ真剣に自分の人生を生きているかだと思います。
 私はずっと、海に溺れているような気持ちでいました。何か問題に出会っても立ち向かう勇気がなくて逃げ回り、自己嫌悪に捕らわれて、どんどん気持ちが苦しくなっていく……そんな悪循環の中で、不思議なことに本を読み何かを書いている時だけ、生きている気がしました。だから書き続けてきたのだと思います。
 自分のことしか考えていなかったから、世界の狭さに気づくゆとりもありませんでした。例えば、自分で書いた物語を誰かに読んで欲しい、想いを共有して欲しいと、本気で願ったかと問われれば、返答につまります。そんな作品が人の心に届くはずがなかったのです。
 誰かが答えてくれることを望んでこそ呼びかけは力を持つのだと、気づくまでに10年以上かかりました。気づいたはいいけれど、ではこれからどうするか? という点については、まだ答が出ていません。未熟者の悩みはつきない……。ただ、「ダックスフント・ビスケット」が書き上がったとき、この物語を友人の娘さんに読んで欲しいと思ったのです。作品の出来不出来よりも、そう思える自分が素直に嬉しかったことを覚えています。
 愛犬の思い出に励まされて、ほんの少しでも外の世界に向かい言葉を発せたのだとしたら、私の拙い作品が奨励賞をいただけた理由は、そこにあるのかもしれません。さらなる勇気をもって、自分の壁を崩していきたいと思います。

奨励賞「古い地図の村で」佐々木 拓哉

▼受賞コメント
 この度は、児童文学ファンタジー大賞の奨励賞を載き、ありがとうございました。選考委員の皆様、そしてスタッフの皆様方に感謝申し上げます。
 奨励賞の知らせを受け、いささか複雑な心境です。喜ぶべきか、落胆すべきなのか?
 賞に応募するからには、一等賞を取るつもりで投函するわけですから、大賞を取れなかったという結果には、やはり落胆すべきなのでしょう。
 私は学生時代に、安部公房氏や大江健三郎氏の小説に目覚め、若いころには故井上光晴氏の主宰された『文学伝習所』に参加し、教えを受けながら同人誌活動をおこなってまいりました。
 これまで大人向けの小説を書いてきた私が、「古い地図の村で」という児童を読み手とした小説を書こうと思ったのは、私の連れ合いの影響によるものでした。彼女のほうは、童話や児童小説を書いておりますので、家の中の彼女や子供たちの周りには児童向けの本があふれています。自然、なんとはなしに私も手にしてみることになります。すると、面白いのです。安房直子さんや斎藤洋さん。とりわけ斎藤洋さんの『ルドルフとイッパイアッテナ』や『ドルオーテ』などは、夢中になって読みました。それで、私も、と触発されたわけです。
 もうすぐ二十歳を迎えようとする長男が小学生のころ、彼と一緒に、私はよく釣りやキャンプに出掛けたものでした。たまたま大人向けの小説を書くために、ダムに沈んだ村のことを取材していたものですから、それらの題材を合わせて小学校の高学年向けの小説を書いてみようと思いました。
 私は小学校の教師をしていますので、自分の教室の五年生の彼らを読者として念頭に置き、書くことにしました。彼らの理解できる語彙、朗読する時の息遣い、物事の認知力、そうしたものを考慮しながら、なるべく平易な文章で書こうと努めました。平易な言葉や文章が、なんら作品の面白さや質を損うものではないということは、斎藤洋さんらの小説でよく分かっていましたので、そうした文体を用いることにしました。小学五年生に理解可能な言語世界という制約を受けての表現は、大人向けの小説とまた違った難しさもありましたが、なんとか「古い地図の村で」という児童小説を仕上げることができました。五百枚までの応募規定の賞では、一四四枚の作品ではちょっと軽いかなと思ったのですが、私にとって唯一の熱心な読者である連れ合いが「いいんじゃない」というので、応募した次第です。
 今回の受賞を励みに、別なスタイルでもう1編、もう少し奥行きのある児童小説ファンタジーを書いてみようと、準備しています。


今年こそと期待していたが大賞、佳作ともに得ることができなかった
河合 隼雄

 最終選考に3作が残ったが、今回も真に残念ながら、大賞、佳作ともに得ることができなかった。去年は奨励賞が2人。今年こそと期待していたのだが、今年も同じ結果に終ってしまった。
 「ダックスフント・ビスケット」は、魔女の使い魔はすべて猫ときまっているのに、ダックスフントを選んでしまった魔女がいる、というので興味が湧いてくるし、最初の書き出しから惹きつける力のある文で、どんどんと読みすすんでいった。ところが、ダックスフントのビスケットが、「おいしく食べてもらう」ことを願って、生命力をもって家を飛び出していくあたりから、話が勝手に流れていき、せっかくの話を安易なものにしてしまったのが悔まれる。
 作者の小林栗奈さんは、相当な筆力を持った人だと思うが、それだけに筆の早さに小林さんという人間がついていけない、というような状況になっている。話がスラスラと流れそうなときに自分の存在を賭けて立ち向かう姿勢をもっていないと、単なる「つくり話」になってしまう。 日本のファンタジー作家、佐藤さとるの次のような言葉をよく心に留めておいて欲しい。
 「現実にはあり得ない作中の仮象の世界にも、それなりに一種の権威を持つ特殊な法則があり……その法則にのっとった出来事は、特殊な必然性を与えられて抵抗なく真実として納得でき、そうでない出来事は、作中世界からウソとしてはじき出されてしまう。」(佐藤さとる「私のファンタジー」、『児童文学1973|2』聖母女学院短大 児童教育科1973年)
 「古い地図の村で」は、話の構成も登場人物もすべてがあまりにも常套的で、話がすぐ先まで予測できてしまう。しかし、それにもかかわらず、読後にさわやかな感じや、感動が残るのは、おそらく、作者の佐々木拓哉さんの、まっとうなお人柄によるものであろう。文章もしっかりして読みやすいが、これを大賞に至る作品にまで成長させるためには、このまとまった作品を一度ぶち壊す勇気がいるだろう。主人公の竜一は川に溺れて死にそうになるが、ここでダムに沈んで命を失ったものたちの世界へと入りこんでゆく――ひょっとしてそれは命を失うことになるかも知れないが――ほどの体験をすれば、より深い世界がひろがってくるだろう。
 古市卓也さんの「ほんとうの木曜日」は前二者と同等の水準の作品であった。しかし、古市さんには昨年、奨励賞をさしあげているので、今回は控えることになった。前作よりは、厚みのある作品になっているが、もう少し全体の構想をしっかりと組みあげておくとよかったと思う。次の作品を期待しているが、決して急がないように。
 大賞となると、なかなかだとは思うが、来年こそはそれに値する作品が出てきて欲しいと切に願っている。


ファンタジーにも“表通りもの"もあれば“裏通りもの"もある
今江 祥智

 意気込んで読んだ去年の候補作が何やらコンピューター・ゲームみたいなきらいがあり、読み終わってから気落ちしてしまった。
 だからというわけではないが、今年はふつうに構えて(しかしむろん期待をこめて)読ませていただいた。三者三様の小世界がちゃんと描かれていて、去年のように戸惑うことはなかった。しかし、これぞ――と感心したり、なるほど――と膝をうったり、うーむと考え込ませてもらえるものもなかった。 二年続きで奨励賞のみ、というのでは、こちらもせつない。「会見」の折に出された質問に答えて、私は「ファンタジーにも“表通りもの"もあれば“裏通りもの"もあります……」と答えた。『ナルニア国物語』や『ゲド戦記』は前者であり、私なんかの好きな・ライラントの『ヴァン・ゴッホ・カフェ』やカポーティの「ミリアム」などは後者の見本といったところだろうか。
 その伝でいうと、今回の小林栗奈さんのものは“ファンタジー私道"といったところだし、佐々木拓哉さんのものは律儀な“ファンタジー旧街道"そしていちばんの力作だった古市卓也さんのものは“ファンタジー三叉路"といえるだろうか。
 小林さんのは、魔女の相棒がダックスフントという異色の組合せをとりながら、肝腎のお菓子がおいしそうに描ききれなかったために、読んでいて弾みが続かなかった。佐々木さんのは、分かりすぎる幽霊譚で終わってしまっている。古市さんのは表現をきりきりしぼったうえ、構成もひきしめ、兄弟もしっかりと描き分ける――といった作業をされたら、もっと読者の心に迫る作品になったのに――と残念だった。
 毎回のように意欲的に作品を寄せられてきたという小林さん、このあたりでひとつ思いきりハードルをあげて跳んでみられてはいかがでしょうか。―― 小樽から帰洛してまもなく、私は一冊の長編ファンタジーの書評を頼まれて読むことにした。1996年にイギリスで刊行された『黄金の羅針盤』である。フィリップ・プルマンさんが書く3部作の1冊目の由。
 これが、なるほど、面白い。
 主人公のおてんば娘のライラも大人たちも守護霊たちも、まことに生き生きと描かれている。舞台も舞台裏もでっかい。私は一気に読むのをよして、明日からの青森までの車中の読書用にもっていき、ゆるりとたのしむことにした。11月には新潮社から出るものだが、2冊目も来年2月に出る由。3冊目は本国イギリスではまもなく刊行されるとか。
 さて来年は、この三部作あたりが話題になっているかも。超えるものが出ているかも!?


「粗筋」を読む前に、3作品の第1ページに目を通してみました
阪田 寛夫

 A「一匹のダックスフントが、時計の針をにらみつけていた。少し太めのダックスフントだった。(6行とばして)彼はゆううつだった。とても、ゆううつだった。
 それと言うのも、彼の主人であり、友人であり、相棒であるハリスおばさんが、百年眠って過ごすと言い出したからだ」
 B「竜一は父親と2人でキャンプに行った。つりをするためだった。竜一はつりが大好きだった。その帰り道、事故による大渋滞に巻き込まれてしまった。父は、20年ほども前から使っている古い地図を広げ、回り道はないかと探し、山越えの旧道を行くことにした」
 C「学校にいるあいだは安心だ。友だちの何人かはそのことを知っているし、先生も知っているけど、だれも豊の前でそのことを口にしたりはしない」

 右は、最終選考に残された「ダックスフント・ビスケット」(A)、「古い地図の村で」(B)、「ほんとうの木曜日」(C)の書き出し部分の引用です。私はこころみに、「粗筋」を読む前に、3作の第1ページに目を通してみました。
 ごらんの通りAは文章にスピードがあり、何かが始まりそうで、その先を読んでみたい気持ちをそそられました。 作品ではこのあとすぐ、ハリスおばさんがプロの魔女の中では変わり者であること、ダックスフントを「使い魔」にしていること、この犬が時計の針をにらんでいたのは、壊れたオーブンのタイマー代わりをつとめていることなどが分かってくる。こんな風にとんとんと音がするほど、先へ先へと気持ちを引っぱられて、古い言葉で恐縮ですが、起・承・転・結の承までは支障なく気楽に読みました。転から結にかけては、誰もが犯すミスですが、解決を急いで、都合のいい約束ごとを作ったりして一挙に失速し、世界が小さくなってしまったのが残念でした。
 Bは佳い意味で律義な文章だと思います。引用の短い叙述の間でも、きちんと因果の説明をつけています。文は人なり、という言葉が、作者御自身にもあてはまりそうな気がしました。律義は物語の文章の性能としては、必ずしも有利ではないと思いますが、私が引きつけられたのは、その作者がとても説明を加えてはいられない状況に、父子を直面させている箇所です。
 少年が溺れかけて、ヤマメの主に助けられる場面。父子が歓待された前夜の山中の宿の家族が、実は死者たちだったと分かる瞬間。これらに私は感銘を受けました。
 Cは400枚の長さです。引用した文中の「そのこと」とは、豊少年の弟が何かむずかしい病気で入院していることを指すらしい。だが、同じページの末尾が初出で、そのあと作中に頻出する『それ』がつかめなくて、頭の悪い私は難渋しました。
 「『それ』||なんだかわからない、恐ろしいもの」と作者も書いているそいつが、校門を出たとたんに姿を現わし、少年をつかまえようと追いかけてくる。学校にいる間はまぎれているというから、それは弟の死、あるいは死の宣告への恐れのようなものか、私のせんさくも作者の自問自答も思い入れもわずらわしくて、始めのうち、なんとか『それ』にかかわる記述を全部カットできないものか、と考えながら読んでいました。バカをさらして恥ずかしいのですが、半分読み進んだあたりで、やっと『それ』こそがこの作品の、もしくは作者自身の核なのかと気がつきました。「なんだかわからない」し、「恐ろしい」のも当然でした。
 長い作品を通じてその解明に全力を尽くされたことには、心からの敬意を表します。いきいきと魅力的な人物たちと、目にあざやかな光景が読者に喜びを与える脇 明子 児童文学の世界には、ファンタジーと名のつく作品がすでに山のようにあるわけだから、まったく新しい何かをそこに生み出すというのは、至難の技にちがいない。しかし、ファンタジーとしての斬新なアイディアは特になくても、いきいきと魅力的な人物たちをそこに住まわせ、目にあざやかな光景をくりひろげてみせさえすれば、少なくとも何人かの読者に心からの喜びを与えることができるはずだ。それには、アイディアからアイディアへと「筋」を追っていくのではなく、物語の世界を自分の目で見て、そこに生きる人物たちの表情や身のこなしを読み取り、語る言葉に耳を傾けなくてはならない。そうでないと人物たちは、筋の展開に必要な台詞を言わされているあやつり人形状態のまま、命を吹き込まれずに終わってしまう。
 『古い地図の村で』は、まさに定石どおりの展開で、先が全部読めてしまうが、そのわりにまずまず楽しめるのは、風景がちゃんと見えるからだ。しかし残念ながら人物たちのほうは、予定された筋書きをきちんと演じているにすぎず、独自の魅力を持った忘れがたい存在にはなりえていない。たとえば主人公のお父さんは、昔の村の様子を解説する役目を負わされて、古物マニアで教えたがりという、小うるさい人間になってしまっているし、主人公と出会う過去の少年、あきらにしても、印象の薄さをいぶかしく思って台詞をたどり直してみると、案内役としての型通りのことしかしゃべっていない。故郷を失って五年生で死に、成長した妹の結婚を祝おうとする少年というのは、かなり複雑な心理をかかえているはずなのだが、そのあたりがいっこうに見えてこないまま、ダムによって村が消えるという、いかにも読書感想文むきの一般的問題に収斂してしまったのが残念である。
 『古い地図』がリアリスティックであるのに対し、『ダックスフント・ビスケット』はおとぎ話的なファンタジーだが、後者の場合、筋の組み立ては多少粗くても、文体や台詞には、単に筋を運んでいくだけではない独自の味わいがほしい。その点、この作品の主人公と犬の台詞は、作品への愛着を左右する鍵であるにもかかわらず、いささか乱暴でそっけなさすぎる。もうひとつ残念なのは、お菓子が主題になっていながら、おいしさが全然感じられないことだ。物語のなかでうまく活きている食べものは、たとえ缶詰のイワシでもひどくおいしそうに思えるものなのに、肝心のビスケットは苦い眠り薬をまぜたものだし、あとはお菓子の名前の羅列だけというのでは、この作品ならではの「味」には出会えない。せめて、世界的銘菓だという「七色の雲」がどんなお菓子なのか、それこそファンタジーならではの描写で楽しませてほしかった。
 『ほんとうの木曜日』は、奨励賞受賞者の第2作だったために、再度の受賞には至らなかったが、ファンタジーでしか書けない何かをとらえようとしているという意味で、大きな可能性を感じる作品だった。ことに気持ちや状況の表現が新鮮で、意表をつかれながらも納得させられるというのは、なかなかの文章力だと思う。ただ、主題が重いせいか、緻密すぎるほどの構成だった前回とは逆に、筋がうまく整理できておらず、「ほんもの」と「にせもの」の話も空回りに終わっている。もっと時間をかければ、それこそ「ほんもの」の作品に育つ可能性はあるのだから、急がずに温めなおしてほしい。


作品との出会いはつくづく面白い、同じ作品であっても、読む時期によって全く違う顔になる
中澤 千磨夫

 再読の不思議ということがある。同じテキストであっても、読む時期によって全く違う顔を見せることがあるのだ。テキストの絶対性を信奉する人には心外だろうが、加齢のみではなく、体調・気分も読みに反映する。作品との出会いは、つくづく面白い。候補の3作品を、私は3月ほどの時間を隔て、再読あるいは三読した。初読時には三作三様に楽しんだのだが、再読の段階で印象は分かれ、選考会に臨む私の態度を決定した。小林栗奈は、既に集英社スーパーファンタジー文庫に数冊の著作を持つプロであり、候補に残った3人の中で、最も安定している。「ダックスフント・ビスケット」は、オペレッタ風の味付けで、よくまとまった佳品。ただ、私は前々回の候補作「四十二行の黄金」に強く惹かれていたので、今回は小粒だなという感は免れなかった。その上、再読時には、魔女の世界を扱う必然性というか、作者の切迫感を受けとめられなかった。初読時には評価できた巧さが鼻についてしまったのだ。まず、ファンタジーの枠組みありきという気がして仕方がない。ファンタジーは結果として現れるもので、ねらってうまくいくわけでは必ずしもない。書ける作家だけに、器用にこなすのではなく、書きたいものが熟するのを待ってほしい。
 佐々木拓哉「古い地図の村で」は、初読のさわやかさが、そのまま再読時にも残った。「ぼく」竜一と父親が、ダムに沈んでいるはずの村であきらとその祖父母に出会うという展開は、おそらく読み手にはすぐに予想がつく。それが気にならないのは、ひとえに素直な文章に現れた「ぼく」の感覚のためだろう。釣りをする人なら誰でも分かる棹を伝わる感触、危険を冒してまでついつい深入りしてしまう心の動き、あるいはヤマメのパーマークなどの知識がよく書きこまれている。あきらたちが死者であるのは明らかなこと。それに気がつかない父子と私たち読者の認識のずれがこの物語の恐さの根源なのだ。ただ、村で会った3人が死者だったことが分かった時点で、「ぼく」と父が全く恐がらないというのはどうも不自然。異界への親和性はこの作品の核であり、それだけにもう一工夫欲しいところだ。エコロジカルな発想はありきたりだが、それが声高な主張になっていないのがいい。
 古市卓也「ほんとうの木曜日」。昨年同様粗筋の書き方が悪い。審査に出すものなのだから、きっちりとまとめて欲しい。それが出来ないのは、自分の中で整理がされていないということにほかならない。とはいえ、今回はこの小説を第一に推したいと、私は思った。再読、三読と面白さが増してきたからだ。病院の暗く気だるい雰囲気やにおいなど、細かな描写が生きいきしているのが何よりいい。主人公の豊は、なにとも知れぬ「それ」に怯えている。「それ」は直接には弟の死だろう。ほんとうの木曜日とは主人公の豊が取りつかれている観念。弟・勝也の退院はその日でなければと決めている。病気が治って家族の関係が回復される日とでもいおうか。だが最後に、そんなものはないのだということを豊は確認し、障害者である弟のありようをそのまま受けいれるのだ。豊は成長した。それを促すのがタンゴさんという魅力的なキャラクター。彼は自分の障害が完治せず、受けいれざるを得ないものだということを豊に示し、そのホンモノ/ニセモノ観を撃つのだ。「いって、自分の目で確かめるんだ」「手術を終えてベッドに横たわっているあの子以外に、ほんものがいるかどうか」というタンゴさんの言葉には感動する。
 地の文において豊の心中がしばしば「ぼく」という一人称で語られるのは、語り手が豊に同調しているためだ。「ぼく」が勝也である箇所ものちにあり、豊=「ぼく」=勝也と癒合している状態を示す。豊の夢の中で、隠れんぼの鬼になった「そいつ」が「ぼく」と表され、さらには例の「それ」が「ぼく」に重なってくる箇所もある。このあたりはちょっと分かりにくいが、兄弟や「それ」が混沌として融合していることを示しているのだと、積極的に読んでみたい。現に、漢字で記せば兄弟らしからぬ二人の名前も、ローマ字にしてみれば、YUTAKAとKATUYAであり、2人で1人というアナグラムになっている。それが作者のTAKUYAにも通じている小さな遊びも買いたい。


各委員の話を聞きながら、大賞や佳作について考え込んでしまう
工藤 左千夫
 本年は、児童文学ファンタジー大賞の5周年ということもあり、大賞や佳作に匹敵する作品を待ち望んでいた。しかし、そのための「ノウ・ハウ」があるわけではない。毎年、選考会の最中に各委員の話を聞きながら、大賞や佳作について考え込んでしまうことが多い。
 五年前、「大人と子どもの狭間で悩む人間群像」を課題として創設した、児童文学ファンタジー大賞。当時、出版社の意向は、小学校中学年程度のファンタジー作品を期待していたことだろう(例えば『エルマーのぼうけん』など)。しかし、右記の課題を模索した高学年向きのファンタジーは少なく、そのほとんどは邦訳ものに依存していた(そのことに問題があるというわけではない)。何とか「日本語」を基礎とした「大人と子どもの狭間で……」のファンタジーを期待していたのである。結果として『裏庭』(第1回大賞 理論社より刊行)、『鬼の橋』(第3回大賞 福音館書店より刊行)、『タートル・ストーリー』(第1回佳作 理論社より刊行)などの秀作を世に問うことができた。これは、望外の喜びである。
 しかし、新作公募の賞はその年次によってバラつきが生じる。上記の課題のみを金科玉条にしていてもはじまらないし、また、大賞や佳作の水準を低下させないためにも、昨年から奨励賞を新設した。奨励賞新設から二年、やはり、佳作の壁は厚かった。当然、大賞の域は遥か彼方である。とにかく、忍耐強く、高水準の作品を待ち続けるのみである。

・「ダックスフント・ビスケット」(小林栗奈)
 5回目の応募で、奨励賞。とにかく、「おめでとう」。文章表現などのディテールは才能を感じさせる。だが、ここでもう一歩の飛躍が欲しい。
 優れた作家は、時代感覚や時代精神を直感的に感じとる。その嗅覚がすばらしい。そのため、作品の背景が無国籍であろうと古代歴史を扱っていようとビシビシと読者に迫ってくる。それが本賞の大賞であり佳作なのだ。
 文章表現の才は才として、一度、全身で時代と向き合うことも必要ではないだろうか。奨励賞以上の評価はその時のことである。

・「古い地図の村で」(佐々木拓哉)
 阪田委員の言を借りれば「とても律儀な作品」で、素直な文章。そのことの好感度は高い(奨励賞)。しかし、あまりに素直すぎて物語の仕掛けが直ぐわかってしまう。確かにミステリーの妙味を期待しての賞ではないのだが、冒頭の雰囲気はミステリー調。工夫の凝らし方がより要求される作品である。

・「ほんとうの木曜日」(古市卓也)
 昨年の奨励賞受賞者で2回目の挑戦である。結論から言えば、「急いで書きすぎた作品」。冒頭の雰囲気は名作『マリアンヌの夢』(キャサリン・ストー著 猪熊葉子訳 冨山房)を連想させる。ひょっとしたら、この作品が作者の念頭にあったのかもしれない。そのことは別にしても、はっとさせられるディテールは随所にある。しかし、全体として作品を眺めたとき、乱雑な部屋になってしまう。力のある作家だけにとても残念であり、次回を期待したい。