ドーンDAWN23号


選考結果

大 賞 該当作品なし
佳 作 該当作品なし         
奨励賞 「森のトロッコ、真夏の写真」高北 謙一郎      


 第21回児童文学ファンタジー大賞の公募は2014年11月から2015年3月31日までの期間で行われた。
応募総数188作。
 一次選考において12作、二次選考では6作が通過。三次選考会においては次の4作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。


 「ハンナばあさんとローヴェの木」 リノ・ハンプシャー
 「ステンドグラスが輝くとき」   井上 晶子
 「森のトロッコ、真夏の写真」   高北 謙一郎     
 「『暗闇』の中で」        古市 卓也



 最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、松本なお子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2015年9月6日、小樽にて開催された。
 選考会は、大賞推薦の有無から始まり、結果として大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
 続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り結果として、佳作は該当作品なし、「森のトロッコ、真夏の写真」(高北謙一郎)が本年度の奨励賞に決定した。

受賞者のことば

高北 謙一郎
(たかきた けんいちろう)

埼玉県在住 41歳
奨励賞「森のトロッコ、真夏の写真」
200枚(400字詰換算)


 自分にとっての創造の女神であり勝利の女神でもある最愛の女性がそばにいてくれる今、この私が負けるはずはない。と、半ば本気で信じていたのですが(すみません)、いざ実際のことになってみると、正直おどろいております。

 カノジョ、すげー!

 さて、このたびは奨励賞、ありがとうございました。
 書きあげた作品に対する手応えと賞の評価が一致するということは、残念ながらそうあるわけではないと思います。そういった意味でも今回の受賞は私にとってたいへんな自信となりました。作品に目を通していただき、そして奨励賞へと押しあげてくださった関係者の皆様、改めて感謝いたします。

 しかし、実を言うと今回「児童文学ファンタジー大賞」に応募させていただいたのは、単なる偶然でした。作品を書き始めた際「これくらいで完成するのでは」、と考えた時期と、こちらの応募締切日が近かったので、「じゃあこれ」という、なんとも安易な理由でした。
 そんなわけでして、もうずいぶんとこの賞には大賞が出ていないということも、あとになって知りました。まぁ別に「知らなかったから獲れなかった」なんてことはありませんが、知ってしまった以上やはり奨励賞では若干の不満が残ります。来年はもっと上を目指し、良い作品を書きあげたいと思います。

 我が女神様のご加護がありますように……。

選後評

斎藤 惇夫
(さいとう あつお) 
選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。1970年、デビュー作『グリックの冒険』で日本児童文学者協会新人賞。1979年『冒険者たち』で国際アンデルセン賞優良作品、1983年『ガンバとカワウソの冒険』(以上全て岩波書店)で野間児童文芸賞を受賞。2000年に福音館書店を退社し、創作活動に専念する。2010年『哲夫の春休み』(岩波書店)、『わたしはなぜファンタジーに向かうのか』(教文館)がある。本年、小〜高校時代を過ごした新潟県長岡市から、子どもへの読み聞かせや選書の大切さを伝え続けた活動が評価され、第19回「米百俵賞」を受賞。



どうぞおまけを支払わせて下さい!

 フォスターは『小説とは何か』の中で、「ファンタジーは、われわれに対してどんなものを要求するのだろうか? われわれが、ふつうよりも何かもう一つおまけを支払うことを要求する」と言っています。それはたしかにそうなのですが、そう頑なに構えずとも、大概の人は、優れたファンタジーに接すれば、作者が独自に紡ぎだした言葉によって、この世の時間と空間から解き放たれ、忘れていた豊穣な世界を経験・再確認することができます。言ってみれば、そのおまけを作者が読者に経験させてくれるかどうかが、作品の質ということになります。

・「ハンナばあさんとローヴェの木」
 この物語は、明るくて翳りなく、物語の展開も素直で、一気に読めるのですが、どうも気の抜けたサイダー、甘いだけのような味わいです。おばあさんを含め、主人公たちの生きている場所に現実味がないし、肝心のローヴェの木と実の感触が描かれていません。テレビで見たアメリカの田舎の風景、あるいは、旅人の目から見た生活の表層しかとらえられておらず、登場人物たちに実在感がないのです。文学の仕事は、その表層から深層を垣間見ることであったはずです。「おまけ」はその先にあるはずです。
・「森のトロッコ、真夏の写真」
 美しく、力強い作品です。文体は正確でよどみがなく、一気に最後まで読ませます。何よりも、シャッターを切る、写真を撮る行為の難しさと、喜びがよく描かれ、また、思春期の主人公二人の男の子と女の子の心の動きがうまくとらえられています。ただファンタジーの部分が弱く、読者には夢としか見えてきません。思春期の心の動きそのものが、ファンタジーでしか捉えることができないことを、証してほしかったと思います。それが「おまけ」になり、人間の心の不思議を語ることになり、少なくとも佳作には値する作品になっていたはずです。構成としては、起承転結の結の部分が未完成ということで、作者が勝負するところはここから、のはずです。
・「ステンドグラスが輝くとき」
 解体される図書室と、そこにある本と、本を愛する人々を知ることによって、自信を失いかけていた絵の道を、まっすぐに歩んでいこうとする少女の成長の物語。物語の構想も展開もよく考えられてはいるのですが、肝心なところが、ナルニアや『時の旅人』などのイギリスのファンタジーや、エジプトのスカラベ信仰に寄りかかって語られ、おまけに、イギリス風の図書館の妖精なども登場し、借り物でストーリーが展開されていて、「おまけ」を感じることができません。せっかく、絵を愛するひとりの少女の再生、成長の物語を語り始めたのですから、今に生きる作者自身の物語として、作者がなぜファンタジーを必要としているかを見据えたうえで、描ききってほしかったと思います。
・「『暗闇』の中で」
 面白い発想なのですが、暗闇そのものの広がりがなく、物語が閉じています。せっかく「おまけ」を楽しませてもらおうと、暗闇の世界に入ったのに、読者には隘路だけが感じられ、新たな独自な世界が見えてきません。主人公たち少年にとって暗闇が何であり、それを通して、人間にとって「暗闇」がなんであるのか、それを「目に見えるように」描き出してくれるのが作品のはずです。要するに、読者である子どもたちに、暗闇を示すことによって、何を彼らに知らせ、何を共有したかったのか、共感したかったのか、それが見えてきません。筆力をもっている作者だけに、残念です。

藤田 のぼる
(ふじた のぼる) 
選考委員
児童文学評論家/日本児童文学者協会事務局長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住


●小学校教諭を経て、日本児童文学者協会事務局に勤務。児童文学の評論と創作の両面で活躍しているほか、東洋大学などで非常勤講師を務めている。2013年に発表した創作童話『みんなの家出』(福音館書店)で第61回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。
主な著書に『児童文学への3つの質問』、『麦畑になれなかった屋根たち』(ともにてらいんく)、『山本先生ゆうびんです』(岩崎書店)などがある。



長編としての骨格と内実を

 「森のトロッコ、真夏の写真」の奨励賞は、順当だったと思います。村上春樹の『1Q84』のように杏樹と悟の物語が交互に語られる構成ですが、こうしたタイプの作品にありがちな作為的な感じは受けませんでした。それは、中学一年という、子ども時代というトンネルから抜け出しつつも、〈大人〉というさらに行き先の見えないトンネルの入り口で佇んでいる二人の姿を、作者が共感をもって描き得たということだと思います。そして、それを描くために、目の前の対象を誰でもが同じように切り取れそうで、実はまったくそうではないカメラという道具立てを用いたことも、成功したといえると思います。ただ、そうであるにも関わらず、二人の人物像がいま一つ迫ってこないのです。この作品は芥川龍之介の『トロッコ』へのオマージュでもあると思いますが、短編の心理劇であるあの作品の場合は、主人公は象徴的な意味での〈少年〉であって、彼の固有名詞や具体的な人物像はさほど問題になりません。しかし、長編ファンタジーであるこちらの作品の場合は、人物像の薄さはやはり致命的です。これは他の選考委員も指摘していたことですが、最終的に二人の物語をどう重ねていくかというところで、作者はもっと試行錯誤を重ねるべきではなかったでしょうか。そのプロセスの中から、二人の姿がより作者の前に立ち現われてくるのではないか、そんなふうに思われます。
 僕が次に共感をもって読んだのは、「『暗闇』の中で」でした。古市さんの作品はこの選考を通して何度か出会ってきましたが、僕は今回の作品がもっとも「児童文学」であるように思いました。「森のトロッコ〜」ともやや重なりますが、〈子ども〉から〈大人〉になるということは、ある意味暗闇をくぐり抜けることであり、二重、三重に外なる暗闇を抱えたセイガイと出会ったことによって、内なる暗闇を発動させてしまった勇の物語、というふうに読めるように思いました。ただ、そうした確かな問いを含んだ作品であるはずなのに、読んでいてドキドキしない。これは読者としての僕が年を取り過ぎているということもあるのかもしれませんが、おそらく大半の若い読者にとっても、退屈になってしまうでしょう。思うに、今述べた〈問い〉が作者自身の方に向けられ過ぎていて、読者への問いになりきれていないのではないでしょうか。児童文学の場合、やはりそこは重要なポイントだと思います。
 次に「ステンドグラスが輝くとき」は、ストーリー全体が中編程度の作品を長編に引きのばした感じで、またファンタジーの仕掛けの部分も、どこかで見たようなという感じで、楽しめませんでした。というか、ストーリー以前に、例えばこの物語の設定の基本となっている図書委員という制度がどうなっているのか。何年も同じ子が委員をしたり、ほぼ毎日委員の仕事があったり、三十年前の蔵書が事務室にきちんと保管されていたり、通常の小学校の図書室ではほぼあり得ない設定が前提になっており、作品の終わり近くになってテンポが出てきただけに、土台のところをきちんと構築してほしいと思いました。
 「ハンナばあさんとローヴェの木」は、ファンタジーというより長編メルヘンという感じの作品で、そのことはいいのですが、こういう作品はまず主人公であるハンナばあさんが、もっと魅力的でないと読者を引っ張れません。それと、肝心のローヴェの実の質感やパイ作りのプロセスがほとんど描かれていない。この作者にも、まずはもっと短い作品で、細部をきちんと描くということを積み重ねてほしいと思います。
 タイトルに書いたように、今回は、改めて「長編ファンタジー」を書くということの難しさ、課題ということを考えさせられました。

松本 なお子
(まつもと なおこ)
選考委員
ストーリーテラー、子どもと絵本ネットワークルピナス代表
1950年生まれ・静岡県浜松市在住

●浜松市立図書館に司書として32 年間勤務し、城北図書館長、中央図書館長を務める。その後図書館を離れ、子育て支援課長、中区長、こども家庭部長を務め、児童福祉業務に携わり、2011年に浜松市役所を退職。静岡文化芸術大学等で非常勤講師を勤める傍ら、各地でボランティア、教師、保育士等へのストーリーテリングや読み聞かせの指導にあたっている。主な著書に『これから昔話を語る人へ―語り手入門』(小澤昔ばなし研究所)。



「必然性があるからこそ共感できるのです」

 「森のトロッコ、真夏の写真」は清々しい気持ちで読み終えました。主人公の二人は中学一年生のしかも夏休みという、子どもと大人のはざま、いわば人生において最もぎこちない時期に差し掛かっています。その心の動きや行動が、歯切れ良い語り口でうまく表現されています。男子よりも女子のほうがぎこちなさを隠す術を少し早く身に着け、それ故に杏樹が危険に会うのもうまい設定です。悟がカメラ・オブスキュラを体験したことを機に物事を素直に見ようとし始め、やがて初恋に目覚める描写は初々しく、同年代の読者の共感を呼ぶでしょう。トロッコに導かれてたどり着き、二人が出会う光あふれる緑の草原も印象的です。二学期には、きっと二人はぎこちなさから少し抜け出して、周囲の人たちとも、これまでとは違う関わり方をしていくであろうと読者に予感させて、物語は終わります。主人公の二人が交互に一章ずつ一人称で語って結末へ導くという構成も、うまく生かしています。しかしながら、二人を緑の草原へ導いた森の妖精の存在が曖昧であり、そのためにファンタジーの要素が薄まってしまったのは少し残念でした。 
 「ハンナばあさんとローヴェの木」も楽しくさらりと読めました。クリスマスという特別な日をローヴェパイという特別な食べ物で特別素敵な一日とする、とても素敵な着想です。ローヴェの木は金銭で売り買いできず、育つか否かは育てる人の内面を反映させるという設定も、わくわくさせてくれます。架空の食べ物を主題にするには無国籍性の手法も効果的でした。よくできたストーリーなのですが、読み終わった後になぜか物足りなさが残りました。それは、肝心のローヴェパイの美味しさを「表現」ではなく「説明」してしまったからでしょう。また、ハンナばあさんの設定も、主人公という役割を担うからには、もっと個性的でもっと魅力的に描き出してほしかったと思います。
 「『暗闇』の中で」は力作ではあるのですが、「痛々しさ」を最後まで拭えませんでした。父母と離れて暮らす小学五年生の勇は、過剰なまでに強くなりたいと願い、事ある毎に強くあったか否かを自分に問います。もう一人の主人公のセイガイは障害と病気を抱え、そのうえ本当の父親の死を受け入れることができずにいます。セイガイが「そこでは目が見える」という「暗闇」の世界も、セイガイにとって救いにはならず、暗闇の世界や傘男の存在の必然性が読者に迫って来ません。「暗闇」と「日常」の設定もわかりにくく、読んでいてルールの無いゲームに付き合わされているようでした。そのため二人の言動に共感できず、結末も納得がいきません。勇とセイガイの会話は緊張感とリアル感があって作者の筆力を感じさせますが、読者の共感を呼ぶところまで仕上げていただきたかったと思います。「暗闇」にはやはり「光」が必要です。
 「ステンドグラスが輝くとき」は、どうしてこんなに書き急いでしまったのでしょう! ステンドグラス、しおりと手紙、もじゃもじゃなど、展開の鍵を握るものをたくさん提示しているのですが、どれも中途半端な感は否めません。もじゃもじゃは登場させる必要があったのでしょうか。主人公はじめ登場人物も統一感とリアリティに欠けます。主人公の志保も彼女の良き理解者である茜さんの人物像もありきたりで、脇を固める人物も間に合わせの借り物のような印象を受けました。また、「のだ」の多用は説明的で煩わしく、擬音語や擬態語を重ねた表現も、重ねる毎にイメージを拡散させてしまい逆効果です。もっと作品世界を整理して、核心を衝いた言葉を選びだすことを心掛けていただきたいと思います。

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)
選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

●著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。北海道立文学館(札幌市中央区中島公園)で開催された(9・19〜11・15)「文豪谷崎潤一郎――愛と美を求めて」の企画・展示に参画。来春、日中戦争南昌作戦の修水河調査を4年ぶりに行う予定。



「暗闇」「暗渠」へ、もっと深く。それが、ただ一度まみえる読者へ開かれる道。

 今回の四作品では、古市卓也「『暗闇』の中で」が唯一議論に値する作品だと思った。それを述べる前に、一読者である私が、作者の古市卓也とともに反省しなければならないのは、私たちが大作『鍵の秘密』を始めとして「古市卓也」の世界に親炙し過ぎているということだろうか。つまり、古市の作品世界はこのようなものという事前了解のもとに読み(書き)始めているということ。つまり、作者は不親切なのであり、一読者の私も、その不親切を許容しているということだ。いうまでもなく、応募作品なのだから、あくまでも前提なしの一回きりのものとして読まれるのが当然なのだ。今回、他の選考委員の意見からそれを痛感した。
 「『暗闇』の中で」は物語性を極力排除して、作者が背負ってきた背骨(古市卓也の核心)のみを描こうとした作品なのだ、と私は思う。だから、タイトルまで無粋で、「暗闇」、「暗渠」や「傘男」の抽象性も描き切れない結果になった。セイガイが手術に向かうことや、「ぼく」(勇(ゆう))が啓一に導かれ現実(光の)世界へ戻ろうとする意志を持つことに、作者は読者との融和を、おそらくは求めている。だが、この作者にとって、それは二の次の問題のままでいいことなのだとも思えてしまう。これが、一読者の私として、悩ましいところなのだ。多くの読者に受け入れられにくい世界であっても、古市卓也は、もっと深く潜っていいのだ。そうすれば、この問題はおのずから解決するはずだ。だから、「不親切」と評したことは、読者におもねるなということと背馳しない。
 いつも、古市は他の応募者と比較して圧倒的な力をもって、私にのしかかる。言葉の重層性を苦もなく文体(スタイル)として身に着けている作家だからだ。ただ、今回は「Say guy」「You」というホモソーシャルな呼ばわり合いもまた、不発のままに終わった。「暗闇」「暗渠」へ沈潜せよ。もっともっと深く。それが結果的に、ただ一度まみえる読者へ向けて開かれることにも繋がる。古市卓也の冒険は、まだまだ続く。
 奨励賞の高北謙一郎「森のトロッコ、真夏の写真」。大好きな作品。だから、私の目は少し眩んでしまったに違いない。カメラ・オブスキュラ、ピンホール・カメラ。私はすぐに、今年、東川賞国内作家賞と芸術選奨を受けた佐藤時(とき)啓(ひろ)の幻想的なピンホール写真を想起する。写真小僧の目はみんなキラキラしている、というのが私の勝手な印象。作者や主人公の少年少女がどんなに写真が好きであるか、しみじみと伝わってくる。そのときめきを読者に伝えてくれているだけで、もう十分。といって済ませてはいけない。こんなに感動を表現することに成功しているのだから、もっと膨らませてみたい。トロッコのある炭鉱跡はどこだ。常磐炭鉱あたりなのかなあ。地名を明示せよということではもちろんない。山や森の様子を書き込みたい。そうすれば、命を失うかもしれない怖さが、より伝わってくるはず。芥川龍之介の「トロッコ」やロブ・ライナー『スタンド・バイ・ミー』も小出しにするだけでなく、きちんとテキスト上の交換をしたい。杏樹と悟の出会いも無理に発展させる必要はないが、夏休み明けの展開を少しは暗示したい。
 リノ・ハンプシャー「ハンナばあさんとローヴェの木」。どうしようもないペンネームと悪態ついて読み始めたが。とくに大きな事件があるわけではない、ただただ素直さ自然さが大切という作品の読後感は爽やかだった。でも、それ以上ではなかった。
 井上晶子「ステンドグラスが輝くとき」。図書室が古くなったからといって図書館が新築される鎌倉の小学校という、とてつもなく不自然な設定。生活の手触りがない。それ以前にオノマトペ、副詞の粗雑さ。なぜここまで重なる形容、冗長さ。この作者には、「書く」という意識がないのでは。文体(スタイル)、つまり世界の見方というものがまったく感じられない。

工藤 左千夫
(くどう さちお)
選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。



奨励賞は一等賞ではありません

 昨年、児童文学ファンタジー大賞も二十周年を迎え、今年こそ! という意気込みのもと、四月の予備選考から始動した今期。実は、その時点で暗澹たるものがあったのだ。
 そのようなとき、いつも鶴見俊輔さんを思い出す。「工藤さん、大賞がでなくても落ち込む必要はありません。逆に自信を持ってください」。そして、スタンダードになるほどの作品は、十年に一作でも「御の字」と。二十年以上前の京都での話である。
 第一回大賞『裏庭』及び第三回大賞『鬼の橋』は、単行本ではなく、既に文庫本。文庫本になるということは、継続して出版社が扱うことを意味する。そこまで来て、ようやくスタンダードの名に値する。大賞二作とも、賞創設の想いが実現されたものであることは、いうまでもない。
本賞については、今から二十四年前、河合隼雄先生と大いに議論を交わした後に企画されたもの。そのため、河合先生の行く先を求めて、京都へ、東京へと八回はお伺いしている。六回目でようやく河合先生からゴーサインをいただいた。それから、福音館書店の松居直会長(当時)への面談から始まり、地元、小樽での様々な打合せとお願いの数々。
 本企画は、ありていに言えばわたくしの「我儘」から始まったもの。そして多くの方々の協力と賛同を得るために、東奔西走。結果責任は工藤に帰するが、多くの方々に協力という名のご面倒をおかけしたことは間違いない。つまり責任とは言っても金銭的なものはなんとかなるが、メンタルな領域まで含めると、責任という言葉を使用することすらおこがましい。そのため、結果を出すために、想定内のあらゆることに目を注いだことは確か。
 何とか二十年以上、本賞の継続が成された。しかし、まだ二十年である。これから本賞の真価が問われる時代になって来た。そのためには、賞運営の実務レベルの世界ではなく、あくまで書き手の真価こそ問われなければならない。文学賞とはそのようなものだ。
 今回の作品を観る限り、それを問うまでの領域に到っているとはとても思えない。
 ファンタジーへの無理解、受け狙いの粗末な表現の羅列、名作と呼べる作品への過度な傾倒とそこから生じる真似事、自己満足だけの世界観、などなど。創作家が創作の過程で、その困難な過程で、自らの世界を変化・拡充しているとの実感が読者には伝わってこないのである。少し、児童文学というものを甘く考えてはいませんか。子どもの読み物だから、簡単だとは思っていませんか。昔、京都大学の今西錦司先生は、子ども向けの本を依頼されたとき、一切、弟子には任せなかった。「大人はごまかせるけど、子どもにはごまかしはきかない」と言って自らが執筆した、と河合雅雄先生から伺ったことがある。また村上春樹さんの直近の著『職業としての小説家』では、「二十年、三十年にもわたって職業的小説家として活躍し続け、あるいは生き延び、それぞれに一定数の読者を獲得している人たちには、小説家としての、何かしら優れた強い核(コア)のようなもの(中略)小説を書かずにはいられない内的なドライブ。長期間にわたる孤独な作業を支える強靭な忍耐力。それは小説家という職業人としての資質、資格、と言ってしまっていいかもしれません」。河合雅雄先生の思い出や村上春樹さんの文脈を、書き手は噛みしめるべきではないだろうか。
 選評については、各委員のそれをお読みください。
 奨励賞受賞の高北謙一郎さん。受賞、おめでとう。しかし、すべてはこれからです。奨励賞は一等賞ではありませんから。